色づいたピンクの舌がぺろりとソフトクリームを舐める。
 ジュネスのショーウィンドウに映る顔を真剣にじぃっと見つめながら、ぴょんと跳ねる寝癖を何度も何度も撫で付け、それでも直らないのを確認し、諦めたかのように気だるげに欠伸を一つ噛み締め終えたのを見届け、近づく。気配無く近づくのは性分では無かったので革靴でコツン、コツンとわざと足音を立てれば、彼――足立透はやがて自分の姿を認め、始末が悪そうに顔を歪めた。

「……サボってないよ」
「まだ、何も言ってませんが?」
「顔に書いてある。現役警察官の洞察力……なめないでくれる?」

 だって、そういう風にしか見えないんですもん。
 ニコニコと笑顔を浮かべることで軽くスルーすると、足立さんはながーいため息をこれ見よがしに吐いた。

「君こそ、こんな時間に制服姿でウロウロするなんて。補導しちゃうよ?」
「残念ながら試験期間中で、二限で終わりなんです」
「あーそう。で、試験が終わったら晴れて夏休みってワケか。いいよねぇ、学生さんは暇で」

 社会人、ましてや地域密着で働く警察官の休みなんてあってないようなものだし、あぁ、やってられない。あるまじきことを小声でブツブツと念仏のように唱え、くるりと背中を見せてくれる。関わってくれるなと言っているようだ。

「今日も暑いですね、足立さん」
「炎暑だよ、炎暑。こんな中、隙のない服装で外ほっつき回っていたら死んじゃうよ。風も無いし湿度も高くて、田舎のくせに灼熱のコンクリートロードに囲まれていて。歩いて来ただけで常人は汗だらっだらになるってーのに、何でキミは爽やかな笑顔を浮かべているの? 全身冷気で包まれた最新型のターミネーターか何か? どっちにしてもそんなキミを見て、僕は余計に不快度指数マックスな気分だよ」
「そうですか」

 拒絶の意を介せず話しかけ続ければあからさまな嫌味が返ってくる。だが、ここで折れるような、繊細で可愛い性格をこちらとて持ち合わせていない。

「それなら涼を取れる絶好の場所を知ってます。そこに行きましょう」

 表情を一ミリも崩さず、指先を合わせ「生憎、外なんですけどね」と、付け加えるとやっとこちらに振り向いた足立さんの顔が、この世のものを見るとは思えない程、歪みに歪みまくっていた。




―― 哀戀葬歌 ――




 此処が何処だか知ってる? 竹林がわんさか生えている京都じゃないんだよ。外で涼が取れる訳ないじゃない。文明の利器に勝てる訳ないでしょ。

 と、白熱にダラダラと溶けるソフトクリームを一口で押し込み、グダグダ文句を繰り返す足立さんを「往生際の悪い人ですね。サボっていたこと、堂島さんに言いつけますよ」と言う魔法の一言でピシャリと黙らせ、半ば無理矢理に手を引っ張り、連れてきたのは小さな公園。平日の真昼間だけあって居るのは早めの昼食を取ろうとコンビニのビニール袋片手に休憩する中年サラリーマンのみ。
 買い物客と思わしき通行人はパラパラと通り過ぎるが、立ち止まることはない。この暑さだ。ここ数年で騒がれるようになった『熱中症』の単語を聞けば当然の光景なのかもしれない。
 帽子を目深に被りベビーカーを押して歩く主婦やご近所の奥様方が連れ立って談笑する隙間を縫うように歩く、おざなりなスーツ姿の社会人とラフなワイシャツ姿の学生。しかもどちらも男。更に言ってしまうと『嫌がる社会人を引っ張る学生の図』だが、傍から見れば手を繋いでいるようにしか見えないオプション付。幾ら深読みしたところで異色中の異色であったが彼女達の目に自分達が映ることは無く奇異な視線を向けられることはなかった。

「僕と堂島さんとの付き合いなめんなよ。ぼかぁ堂島さんとはキミより長い時間、共にしてんだからね。幾ら、キミが甥っ子だからって僕の言うことと、どちらを信じるかは――」
「今回の期末テスト、自信があるんです。たぶん、学年トップだろうなぁ。叔父さん、喜んでくれるだろうな」
「アレでしょ、ナチュラルに脅してるよね?」
「あ、アレです」
「まったく僕の話、聞いてないね。キミ」

 聞いても身にならない愚痴を無視して、汗ばんだ指先で指し示した箇所は公園の隅。はぁっ? と不可思議な表情を浮かべる足立さんの手を更に強く引き、色違いのクリーム色のタイルで描かれた円の中心まで導く。

「なに、これ」
「生命の源たる水を弄ぶ罪深きアート」
「は?」

 口元に指先を添えて言い、絶好のタイミングで繋いでいた手を離し、自分だけが後ろに飛ぶ。我ながらジャストタイミング――瞬間、先まで居た地面から噴出したのは俊敏な水鉄砲。眼前ギリギリを飛んだソレに、足立さんは驚いて引っ繰り返らんばかりに仰け反っていた。飛んできた水飛沫を頬に受けながら、足立さんの姿に口元をゆるめる。

「ほらほら、足立さん。納涼の始まりです、楽しんでください」
「え、ちょっと。なに、ふざけたこと言ってんの!?」
「次はそこ。うかうかしていると餌食になりますよ」

 足立さんの足元右下にある噴水口を指差し、自身もまたジャンプ。シュンと飛び出した水を背中を反らし、ひらりとかわす。足立さんに助言してばかりでは自分とて餌食となってしまう。

「うげっ、地面から噴出すタイプの噴水かよっ!? 僕の一張羅が濡れたらどーしてくれるのさっ」
「濡れなきゃいいだけの話です。ちなみに俺は代えが何枚かあるので濡れても平気です」
「キミ、本当にむかつ――うわっ!」
「敵は前から来るとは限りません。背後にも注意しないと――よっ」

 背後から飛び出した水を前のめりになりつつ、寸前で交わす足立さん。俺はと言うと完全に飛び出す順番を掌握しているので革靴をきゅっきゅと鳴らし交わし続ける。ちょっと計算外だったのは革靴だと濡れた床に滑りやすい点だろうか。口に出すことなく、気をつけねばと自戒する。
 陽介に「そういえば――」と他愛も無い話の合間に聞いた此処のこと。ジュネスの近くに地域住民の交流が図れるように公園が新設されるという話。ちょっとおもしろい仕掛けの噴水もあるのだと紹介されたのだ。

『偶々、外国かぶれの設計士に当たってさ。母国にあるアートを由緒正しきジャパニーズにも! とか意気込んだらしくて……ま、どうでもいい話だけどさ』

 その外国設計士とやらに俺は深く感謝の意を込めた。こんなにも痛快なアトラクションは久し振りだ。
 風に葉々が揺れる木立の中、薄い影が二つ、地面から断続的に突出する水を避ける。海老反りになったり、両手をわたわたさせて片足を上げてみたりと忙しく、慌てふためく足立さんの姿がおもしろくって、愉快で、思わず声を出して笑ってしまった。

「畜生。自分だけ優雅に逃げ回ってっ。規則性があるんだろっ! 高学歴、なめんなよっ!!」
「ではヒントを。昨日、じっくり観察した限りでは一定時間性で五十発毎の十六パターン、それがアトランダムに発生します。最初の三発でパターンは特定出来る筈です。精々、覚えてください」
「キミが、人が火に焼かれて、アチアチ言っていても面白がって見ている鬼畜タイプだと言うことを真っ先に覚えておくことにするよっ!」
「褒め言葉として受け止めておきます」

 避ける方に集中し不自然に途切れる売り言葉に、買い言葉の応戦をしつつ、心の中で感嘆する。まだ、輪の中心に無理矢理に連れ込んでから短時間しか経っていないのに口だけでなく、ぎこちないものの動きが伴ってきている。ひぃっと悲鳴を上げつつも、上着の裾にかかりかけた噴水を見事に避ける。すぐに濡れてしまうかと予想していただけに、ちょっぴり悔しい。

「さすが、足立さん。やっぱり現役の刑事さんですね。動きが俊敏です」

 水が織り成すアートの中、避ける振りをして足立さんの胸元に飛び込み、顔を見上げる。刷毛で雑に描いた白い雲が存在する蒼穹の空の下、透明な水飛沫が飛び散る幻想的な雰囲気の中で驚いた足立さんの表情が印象的だった。だって、前に『好きです』って告白した時さえ、そんな表情は見られなかったのだから。

「それで僕の邪魔しているつもり?」

 胸元をトンと手で突き放される。瞬間、二人を分かつ水飛沫が高く飛ぶ。

「ちょっとぐらい動揺してくれてもいいじゃないですか」

 驚いたのは一瞬で、次の瞬間にはつっけんどんな表情になって、俺を突き放した足立さんが水越しに嘲る。

「動揺なんてしないよ、キミ相手に」

 そう言いながらも付き合ってくれるのは何故ですか?
 こんな戯れ、噴水口のない円の外に出てしまえばそれまでなのに。それを見ない振りして、知らない振りして、とぼけて俺の相手をしてくれるのはただの気まぐれなのですか?

「胸の大きい女の人なら?」
「お尻の大きい安産型だと尚良いね。ま、僕如きじゃあ在り得ないけど。今度、紹介してよ」
「口元にほくろのあるセクシーな女の人の知り合いなら一人、居ますけど」
「いや、彼女は……いいや。上原看護師のことでしょ? 前に被疑者を怪我させちゃった時、笑顔でネクタイ持ち上げられて首絞められた記憶が……」

 気まぐれ、か。
 自分で言っておきながら、心の奥底で自嘲気味に笑う。それでもいいんです。だって、貴方のことが『好き』なのですから。心に秘めておくことも、黙っておくことも嫌で先日そう言ったら、貴方は嫌な顔一つせずへらりとした表情のまま、ただ『あっそ』とだけ言ったんだ。何も言わずに、ただ享受して貰えたことが嬉して嬉しくて堪らなかった。

「では、気品ある子持ちの淑女はどうです?」
「……キミは僕を犯罪者にしたい訳?」
「あくまでも紹介するまでです。どうするかは足立さん次第じゃないですか」

 屈託のない会話は肩肘を張らなくて済む。告白しても足立さんは良くも悪くも何も変わらなかった。グラマラスな女の人が好きで、台詞がいちいちエロオヤジっぽくて、そこが定位置かのようにネクタイが常に曲がるほどズボラで、新鮮なキャベツの浅漬けが好きな人。気取らず飾らない足立さんの姿を見るだけで、自称特別捜査隊のリーダーとして知らず知らずのうちに重く圧し掛かっていたプレッシャーからふっと解放される。

「ねぇ、足立さん。イイ年して噴水で遊ぶ俺達のこと、周りの人にどう見られているんでしょうね」
「そんなの知らないよ。間違っても恋人同士はごめんだね。精々、仲の良い兄弟……いや、それも嫌だけど」
「俺がお兄ちゃん?」
「背の高さで判断するなよ。これでも平均身長、キミがでかすぎなの」

 ふわりと赤いネクタイが視界を舞い、飛沫を避ける。噴水口の狭い間を優雅にすり抜け、不敵に笑う姿に目が奪われる。流石、高学歴と自称していただけはある。この短い時間の中で、もうパターンを覚えてしまったようだ。
 なら。
 きゅっと革靴を鳴らし、トンッと踏み込む。シャドウに立ち向かうように素早く駆け抜けた後を水飛沫が追うのを確認して、足立さんにダンスに誘う紳士のように手を伸ばす。

「逃げるだけじゃ、つまらないでしょう?」
「なにそれ。下手な誘い文句?」
「こういうトロコじゃないと紙一重のスリルを楽しめない年頃なので」

 表情では「残念ながら僕は現実に嫌と言う程、味わっているので間に合ってます」と言っていたが、身体は安っぽい挑発に乗っていた。水飛沫を出し終えた噴水口の上を滑るように、視界から消えた足立さん。途端、足元を駆け抜け疾風――足立の足が地スレスレに飛んできていた。
 そうこなくっちゃ。

「ちっ、秀才のくせにスポーツ万能なんだっけ」
「そーいう足立さんこそ」

 足蹴りを膝を折ることでかわし、瞬時に飛んできた手刀を腕でガードする。まったく遠慮がないというか、子供っぽいというか。そうやってすぐにムキになるところも好きなのだけど。手刀を軽く受け流し、脇腹目掛けて足を繰り出したが虚空を切る。逃げ足が速い。非現実的な世界を知らない人の前では決して言えないが、下手なシャドウより強いんじゃないだろうか。

「こしゃくなっ!」
「十も離れている人に負ける訳にはいきません」
「僕だってまだ三十路前の青二才だっつーの!」

 命を司る透明の水がいずしれず出現する神聖なる場所で、命を懸けた演舞をしているようだった。鋭く鮮やかに上がるものの命を奪う刃ではない水飛沫が舞うなか。誰ともしれない強大な権力者の掌の上で、報われない片恋を差し向ける己と、それを拒むことも受け入れることもしない無情な人が闘い、互いを傷つけることでしか言葉を交わせない――既視感。

 足立さんは笑っていた。
 たぶん、俺も笑っていた。

 感じた既視感がもし本当なら、それでも良かったんだ。自分達の気持ちを素直に吐露できない不器用な二人には、たぶん丁度良かったのだから。
 お互い、手腕を出しつくし膠着状態に陥る。水に濡れたタイルからじわじわと立ち昇る蒸気さえ、今ではフィールドの一部のようなもの。汗とも水飛沫とも取れぬ水滴がだらりと胸元へ滑り落ちる。先に動いたのは足立さんだった。

「お遊びはこれまでだよ、悠くん」

 笑いながら、先までの雰囲気をかなぐり捨てて鋭い眼光となった足立さんが懐から拳銃を取り出す。トリガーにかけられた指先がヤケにリアリティだった気がする。思わず、手元にない対・シャドウ用の刀を手繰り寄せそうになって――あっと息を飲んだ。

 視界が透明な水滴を伴った蒼大な空色に染まる。そう、ワンテンポ前に靴の底がツルっと滑ったのには気づいていた。ならば次にはどうなるか、考えずとも反射神経が教えてくれる。走馬灯のように速度が落ちる風景の描写を瞳に焼き付けながら、頭を強打しないように身体を丸め、身構えるのが精一杯だった。
 だから、腕を力強く掴まれた時は天と地がひっくり返る程、吃驚した。本当は冷たい地に打ち付けられ、水飛沫の餌食になっていた筈の身体が人肌に包み込まれる。視界が蒼に似て、似つかない深い紺色に包み込まれた時、唯一リアルな蝉の鳴き声がけたたましく耳に反響した。

「……冗談だったのに、本気でビビるのがいけないんだよ」

 頭の上から地を這うような声が恨み節のごとく紡がれ、負けじと応戦する。

「モデルガンぐらい見分けがつきます。滑ったのは偶々です」
「可愛くないことを言うと今からでも手を離すけど?」
「なら、なんで助けたりなんか」
「善良な市民を守るのが警察官の仕事ですぅー」

 盛大に転びかけた俺を助けたのは他ならぬ足立さんだった。モデルガンを持たぬ片方の手で易々と支える姿に、微かに嫉妬を覚える。人のこと、散々『むかつく餓鬼』呼ばわりしていたのに。
 先に胸元に飛び込んだ時だって、あのままで居れば水飛沫の餌食になっていたのは数ミリの差で俺だったのに、足立さんはわざと突き放した。言えば不機嫌になるだろうから言わないが、追い詰めるだけ追い詰めて助けるなんてズルイ。
 一言言えば二言、三言になって返ってくるので黙っていたら、黒い円筒が目の前に突きつけられると同時に、足立さんの嫌らしい笑顔についてくるニヤリとした口元が見えた。

「ひゃっ、て――何するんですかっ!」
「ムツカシイ顔して可愛くなかったから、つい」

 つい、とは何だ、ついとは。ついで人の顔に水鉄砲の引き金を弾くのか。
 口に入ってしまった水がカラカラに乾いた喉へと落ちる。乾いた手で拭い取ると、灼熱の太陽に焦がされた皮膚に水分はあっという間に吸収された。前髪に残された水滴がぴちょんと滴り落ちる。

「けど意外。キミもそんな顔するんだね。女の子みたいな悲鳴をあげてさーっ、ひゃっつだって。かっわいーっ。あ、また可愛くない顔になってるよ。眉間に皺が寄ってる」
「……」
「餓鬼は餓鬼らしくしていれば――って、げっぶっ」

 ここぞとばかりに人の神経を逆撫でする足立さんに黙って応戦していたのには理由があった。計算どおり――今度、笑みを浮かべたのはこちらだった。自らの手を汚す必要なんて無かった。この時間帯、最後の水飛沫が弧を描き、するりと二人の間を駆け抜けたかと思うと、それはダイレクトに講釈を垂れ流す自称大人の顔にクリティカルヒットしたのだ。噴水が消えた後に現れた、ぐっしょりに濡れた間抜け面に、自然と口元がにやけてしまう。

「……人の恩を仇で返すとはイイ度胸だね、キミ」
「だって、足立さんが余計なことするからっ……ぶふっ、前髪が垂れて妖怪みたいになってますよ」
「そういうキミだって、もっさり前髪で目が見えなく――あぁ、もうアホらしい」

 何だかんだ言いつつ、離されていなかった腕が再びぐぃと引っ張られる。引っ張られた拍子に、ぽすんと収まった先は足立さんの濡れていない胸元。濡れちゃいますよと言おうとしたが、ゴンッと頭の上に乗せられた顎と肩に回された手に何も言えなくなってしまった。

「こーいうことは彼女にしてあげなよ」

 思わせぶりな態度に鼓動がドキドキ早鐘を打ち出した頃合だったのに、急に冷気が差し込む。けれど、それは告白した瞬間から変わらないことでもあった。一瞬にして冷えた頬を何てことの無いように繕い、足立さんからすると可愛くない台詞を口元から滑らせる。

「……嫌なら、拒絶してください」

 中途半端な優しさが嬉しくもあり、傷つく要因であることを知っている。けれど、弱虫な自分から切ることは出来なかった。離しがたくて、愛おしい人。ぐりぐりと頭を押し付け、濡れてしまったワイシャツをぎゅっと握り締めると頭上からため息が零れ落ちる音が聞こえた。

「だからキミは悪い大人に騙されるんだ」

 ふっと空気に同化するように吐き出された言葉、その言葉が刻まれたのは鼻先で。モデルガンがタイルに落ちた音と心地良い温もりが両頬を包み込み、顔に影が落ちたのはほぼ同時のことだった。

「んふっ――」

 『そう』されるなんて少しも想定していなかったものだから、息苦しさに鼻からくぐもった声が零れ落ちる。意外に冷静な思考が弾き飛ばしたのは一般市民が憩いの場とする公共の場で何てことを! という至って一般的な思考。けれど、心配する必要なんて無かったんだ。

 噴水広場を囲うようにタイルに沿って円状にあった噴水口。一度も噴出したところを見たことがなかったソレが初めて一斉に開き、頭上より遥か高くに水飛沫を掲げる。一般的に身長が高い方に部類される俺でさえ、すっぽりと閉じ込めてしまう水の檻。その中心に居るのは自分達だけ――見られる訳なんて無かった。

 水の檻が低くなり始めたのを見計らい、名残惜しそうに――と感じたのは、拒絶されないことをいいことに関係を保とうとする自分だけなのだろうか?――唇をなぞる無骨な指先。えっらそうに空の真上に鎮座する太陽のように、目の前の人がカラリと笑った。

「――こうやって、ね」
「……ズルイ」
「勘違いしないでよ、これは予行練習。タイミング、ばっちりだったでしょ?」

 誰との、とは敢えて言うつもりはないらしい。
 するりと頬を流れた指先、温もりが遠のく。背中を翻し、最後の大々的なフィナーレに盛大に濡れた薄い水面に映った白い入道雲をパチャンと踏み潰し、こちらに振り返りもせず、ひらりと手を振る足立さんの背中をぼぅっと見つめる。

「二度と僕を誘わないでよね、忙しいんだから」
「……決まった曜日の決まった時間にこうなることを知っているのに?」

 しかも『クソ餓鬼』に気紛れにキスまでして。
 唇に触れると水とは似て異なるモノに濡れた感触が伝わり、気恥ずかしくなる。その言葉に立ち止まって、少しだけ足立さんはこちらに振り返ったけど、逆光で大部分は影となり、同じように濡れ薄い笑みを象った口元しか伺えなかった。








「キミはかつて、水を『生命の源』なんて表現したけど……本当にそうなのかな?」

 はらり、ひらり。
 風の無い街中を、白い花が舞い落ちる。

 しんしんと底冷えし、しみわたる寒さを肌で感じる。八十稲羽にも本格的な冬が訪れたのだと実感した今日この日、白い息をはっはと吐いていた俺は、ちっとも警戒しようとしない無防備なあの人の目の前に居た。凍てついた空気を纏う夜だと言うにも関わらず、あの時と少しも変わらない姿で、マフラーもせずにヨレヨレのポケットの中に指先を突っ込み、鼻を赤く染めた人がやはり同じように、薄い笑みを浮かべる。

「雪もそう……純白のようで、所詮は塵や埃の固まりにすぎない。ははっ、今月じゃないけどさ……こんな雪降る日に、こんなクソな世の中に生まれた僕にはお似合いの餞さ」
「足立さん」
「帰らないよ」

 まるで憑き物が落ちたような表情を浮かべていた。近いようで遠い距離がもどかしくて間を詰めようとするが、銃口が俺ではなく足立さん自身のこめかみに当てられ、足を止めることしか出来なかった。

「足立さんっ!」
「僕は在るべき場所へと行かせて貰う。それを止める方法は一つだけ。キミが此処で築きあげたしがらみを全て捨て、僕の手を取るというのなら……考えてあげる」
「それは出来ませんっ!!」

 幾ら大好きな人からのお願いだからって、それは到底、赦される願いではない。本当はほんの少しどころか苦悩し、葛藤していたけれど、口から出た言葉は『理念』と『正義』を貫く言葉。あんなにも嫌っていた『リーダー』というしがらみに俺は今、助けられているのだ。心の矛盾を見透かしたかのように、足立さんは寂しそうに口を歪めた。

「本当に……キミと僕は似ている。外見とか性格とか簡単に言葉では言い表せない根底が、ね。ただ唯一、はっきり違うところ……自分を本当に理解してくれる人に会えたか、会えなかったかの差」
「他の誰が何と言おうと俺は足立さんの味方ですっ! 叔父さんや菜々子だってっ!!」
「そうだね……一年、いいや、半年でも良かった。もっと早くにキミに出会えていれば――」

 こんなことにならなかったかもしれないのに。

 言葉無き足立さんの言葉に胸が突かれ、ひゅっと喉の奥に息を失う。
 俺だって今の仲間達に会わずに、テレビの中に入れるという人ならぬ異能の力に気づいていたら。全て仮定の話。けど、違う選択肢と道があったんじゃないかって、ずっと考えていた。もしもっと早くに自分が足立さんと会えていたら、恋に落ちていたら、彼がこの街で起きていた哀しき事件の最初の殺人犯だと気づいていたら――もっと別の選択肢があったんじゃないかって。

「……これ以上、罪を重ねるのは止めましょう」

 一歩、ザクッと雪を踏みしめ縮めた距離は、足立さんが一歩後退したことで変わらない。

「無駄だよ。僕の手はもう……血みどろなんだ。なら、課せられた役割を果たすまでだ。殺人鬼は殺人鬼らしく振る舞い、自分の末路を自らの手で見出す」

 静かに放たれた言葉。けど、知っている。貴方は本当に卑怯だ。

「演じる必要なんてない。現に貴方は――自分の罪を受け止め、後悔している」
「後悔なんてしていない」
「いいえ、している。だって貴方は泣いている」
「泣いてなんか――」
「いいえ、泣いています」

 狡猾な振りをして、おどけてみせても、涙は誤魔化せない。舗装のはがれ落ちたコンクリートにまばらに募った雪が、ぴちょんと落ちた滴に応呼するように溶ける。

「悠くんは馬鹿だね……目尻に雪が落ちて、溶けただけ。自分勝手で、身勝手で、餓鬼のまま大人になった冷徹な僕が泣ける訳ないじゃない。馬鹿じゃないの」
「足立さん」
「来るなっ!」

 足立さんは震える声で、震える唇で、自嘲気味に洗う。抗うように笑い、ガチャっとこちらに向けたのは銃口だった。あの時、何も知らずに過ごした、楽しかった一時に向けられた偽物なんかじゃない重厚とした音。トリガーにかけられた指先が弾かれれば死ぬかもしれないのに不思議と恐れは無かった。

「もう……タイムリミットだよ。おしゃべりはここまで。良い子は寝る時間だ」

 だって、ここに居るのは無慈悲な殺人鬼なんかじゃない。ただ、自分が生きてきた中で唯一、心を許し、愛した人。撃たれても別にそれで良かった。足立さんにとって俺はその程度の存在だった。ただ、それだけ。哀しくなんてない、極限の状況の中で浮かんだのは笑みだった。

「それでも貴方のことが好きです。今も、これからもずっと――」

 せめて、殺される前に伝えたかったのはその一言だけ。
 その一言を聞いて「キミは本当に馬鹿だよ」と少しでも躊躇してくれて、引き金を引こうとする足立さんの指先がらしくなく震えていたのを見られただけで幸せだった。幸せだったのに。たぶん、生涯の中で一番綺麗な笑顔を浮かべている自信があったのに。
 耳に響いた、叫びとも金切り声とも取れる耳障りな一発の銃声。何処を撃ち抜かれても良かったのに――やっぱり、貴方は誰よりも本当に優しくて、卑怯な人だった。

「本当に馬鹿で――愛おしい子だよ、キミは」
「あ、だちさん……どうしてっ」
「キミと通して知るこの世界は、何でかなぁ、くだらないくらいに綺麗でさ。儚くて、愛おしい気持ちにさせてくれる」

 また、雪が一つ、彼の頬に零れ落ちる。

「あの時の、くっそ暑い中の子供じみた噴水デート、僕も楽しかったよ」
「足立さんっ!」
「だから、その記憶を糧に……僕を裁きに来てよ。他の誰でもないキミにしか、『リーダー』にしか出来ないことなんだよ」

 リハーサルしたでしょ? ――だから、大丈夫。
 一陣の風が鋭く吹き抜け、冷たく頬を撫でる。言葉の意味を理解した時、噴水の水飛沫のような涙がこぼれ落ちていた。

 言外に、自分達がつたないながらも相思相愛だったのだと。同時に、それだけの、甘くて密やかな関係だけじゃ済まされないのだと――突き放される。首を振る。何を今更、そんなことを告白されたって嬉しくなんかない。
 正鵠に射られた足元。雪から上がる硝煙を無視して、いつもの諦めたような仕方なさそうな人の良い笑みを浮かべた足立さんの胸元に、何もかも忘れて飛び込もうとうする。一人寂しく凍える人を、温かく抱き締めてあげたかった。
 けど、彼がタイムリミットだと言ったのは本当に的確だったのだ。きっとこうなることも見通していたのだろう。彼の最後の告白に、最後の自制心で留めていた『リーダー』さえ捨ててしまおうとした俺を止めたのは他の誰でもない仲間の腕だった。見計らったかのように銃声がもう一発、狙って足元に撃ち込まれる。

「本当にしつこいね、『君達』も」

 先までの本心を捨て、彼は既に冷酷な殺人鬼の仮面を被っていた。
 だからこそ分かってしまった。彼が役を演じることで、俺を仲間達の元へ戻そうとしていることを。心臓をぶち抜くことだって容易いのに、わざと威嚇射撃することで逃げやすくしていることも。そんなことを――こんな時に、伝えないで欲しい。自分にしか見せない表情があることも今になって知るなんて。彼に手を伸ばし、声にならない悲鳴をあげるが彼は止まらない。彼の名前を呼ぶ声は哀しみに満ち溢れ、空を切っていた。

 足立さんは銃口をこちらに向けたまま、それ以上、言葉を発することも発砲することなく薄暗く灰色に染まった街へと溶けるように消えていってしまった。





 降り始めたばかりの雪が募る。穢れた世界を浄化するように、ただしんしんと音無く降り落ちるスノーホワイト。
 いっそのこと、この想いも消してくれないだろうか。無かったことにしてくれないだろうか。到底、忘れることなど出来る筈もないのに願ってしまう。身体中を蝕む毒のように身体中に広がり、浸透する苦しい想いなど知らなければ、と。

 ――けど、それでも大好きなんだ。

 前触れなく抱き締めてくれた温もり、他愛ない戯れが思い出され、胸を守るように崩れ落ちる。瞳から零れ落ちる止め処ない涙。空を仰ぎ見たところで、涙は止まらないし、そこに清々しい蒼い空はない。薄暗いどんよりとした灰色の雲があるだけ。

 ――ただ、罪に苦しむあの人を守りたかっただけなのに。

 刻々と近づく半宵。
 漆黒の夜を包む空気は冷気を更に強め、容赦なく体温を奪いつくす。刻さえも凍てついてしまった感覚を目処に思考を停止する。停止することでしか、耐えられそうに無かった。



 自身を現実に繋ぎとめた腕の存在すら忘れて、ただひたすらに。段々と数を増やし続ける雪のように、同じ数分だけの涙を流し続けた。








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