空の上から煮えたぎった熱気をギラギラと地表に向かって放つ真夏の太陽。加え、ここ数日で行われた試験の手応えを加算すれば気分は最悪中の最悪。ささくれだったオレの心はヘッドフォンから流れるお気に入りの曲でさえ癒しきれず、やり場のないモヤモヤが無意味に道に転がった小石を遠くに蹴飛ばした。抵抗することなく力の法則に従って新しく出来たばかりの公園へと飛んでいく小石。何気なしに末路を伺ったオレは、後に更に激しく後悔する羽目となる。

「兄弟かしら?」
「……さぁ? けど、あのスーツの人は確か刑事さんだったような」

 丁度、同じ方向を見ていた買い物帰りのおばちゃん達が話す言葉が右から左へと通り抜ける。頭同様に中身が空っぽな薄っぺらいカバンを肩から滑り落としてしまいそうになる。
 無数もの水飛沫が舞う中、ダンスを踊るように軽やかなステップを踏む見慣れた銀灰色と生まれたての小鹿を思わせるおぼつかない足取りの漆黒色の大人。どうしてあの二人が、どうして此処にと思う以前に。どうしてあそこに居るのはオレじゃないんだろうって。

 数日前に確かに自分の口からした他愛も無い話の一部を回顧しながらも突然、裏切られた気分になって、落ちかけたカバンの紐を力いっぱい握り締めると弾かれるようにオレはその場から逃げ出していた。




哀戀葬歌 ―Magician Side―




 本当に他愛もない、日常生活中のくだらない話の一部だったってことはよく覚えている。

「ねぇ、花村。最近、ジュネスの脇っちょ、工事が入ってない?」
「あぁ。今度、ジュネスの近くに公園が出来るんだ。地域住民の交流が図れるように、だとよ」
「公園かぁ。子供達が喜ぶね」
「子供が遊ぶ場所なんて限られているもんね。憩いの場所が出来るのはいいことかも」
「子供っつーよりおばちゃん達の噂が飛び交う混沌とした場になりそうな気もするけどな……ま、小さいと言えどすべり台とブランコがつくって言っていたし。あ、そーいやちょっと変わった噴水も作るとか」
「噴水? あの規模の公園にはゴージャスじゃね?」
「少なくとも里中が想像するようなビッグなヤツじゃないことは確かだ。アレだよ、地面に噴水口がついていてランダムに飛び出すタイプ」
「へー、おもしろそう」
「ハイカラだな」
「ま、いずれにせよ。オレ達にはあまり関係のない話だな」

 待ち合わせ程度には使えるかもしれないが、それならジュネスを使う。誰もがそう思っていた。現に公園の話はここで終わり、試験終了後の夏休みの話に顔を合わせ皆、思いを馳せていた。

 だから教科書を開いたまま、ふいに窓に視線を移し、物思いにふけていた悠がまさかあんなことを考えていたなんて、ちっとも知らなかったんだ。





「なぁ、悠。この前、あの例の噴水で足立さんと一緒に居たよな?」

 一緒に居たと言うより、久しぶりの逢瀬を楽しんでいるように見えたのは、いらぬフィルターを通して見ていたせいなのか。努めて不自然にならないように、いつもの安っぽい笑顔を張り付けて、あくまでもフランクな会話として伺う。そんな自分にヘドが出そうな程、嫌気が差した。

「あぁ……見たのか。声をかけてくれれば良かったのに。足立さんが暇そうにして
いたから、少しからかってみようかなって。足立さんの動き、おもしろかったろ?」

 少しでも悠の異変を感じ取ろうと神経を集中させたが、こともなげにボールは返され、拍子抜けする。
 声をかけるなんて出来る訳がない。完全に二人だけの神聖なる世界と化していたあの場所に立ち入る勇気さえ無かった。自分達がどんな表情で、あの場所に居たのかを知らないとでも言うのだろうか。
 到底、今教えられている二人の関係から弾き出されるものではなかった。それこそ、知らない人が見る分には仲の良い兄弟がじゃれあっているようにしか見えなかった。刑事と、その刑事の上司の甥っ子――顔見知り程度の関係の二人が見せ合う表情などではなかった。

「よりにもよって足立さんかよ。何ならオレを誘ってくれれば良かったのに」
「ああいう子供っぽいのは花村、好きじゃないのかなって……ごめん。今度、皆で行こうか。里中や天城とかも意外と好きそうだし」

 違う、皆と噴水で遊びたいんじゃない。お前と二人っきりで過ごしたいんだ。
 言える筈もなく、にへらっと表情を象り、そうだなとしか言えない。キラキラとまばゆい日脚にその身を光らせた水飛沫が舞う中、距離を近くし、見つめあっていた理由を問いただせないまま、授業を開始するベルが無常に響き渡った。



 悠が皆の良きリーダーとして振舞うため、自らを律することで己の感情を押し殺し、少なからず立場に縛られていることは知っていた。気を遣わせないようにそれとなく自分を頼って欲しいと、自分にだけは吐き出していいのだと伝えたが、在り来たりな笑顔で「ありがとう」と言われるだけで特段の進展は無く、今に至る。
 無自覚に他人の領域に土足で上がり込み、お節介と言われてしまう己を呪いたかった。悠にそう言われたくなくて、嫌われたくなくて、一歩引いて静観してしまった結果がコレだ。気がつけば、横から現れた第三者にその手を掻っ攫われていた。つくづく運がない。

 はっきり、悠のことが好きだと自覚したのはあの瞬間に他ならない。
 相棒のオレにでさえボーダーラインを引き、己の深層に立ち入らせようとしなかった悠があの人には自ら手を差し出していた。誰にも見せたことのない、とびっきりの柔らかい笑顔を浮かべながら、好きだと全身で告げるように。相手の意などお構いなしに、誰の目についてもおかしくないあの場所で堂々と想いを公言していた。
 焦燥感が募る中、灯ったのは嫉妬の炎。好きな人が愛した人が自分でなければ、余程のお人よしでなければ当然するだろう。どちらかと言えば、余程のお人よしに部類される方だが相手が相手だったので勝手が違った。
 あの人は――足立さんは悠から差し向けられたものが愛情と知りながら、一向に受け入れようとしていなかった。拒絶もせず、ただただ、のらりくらりと受け流していた。許せる訳がなかった。代われるものなら代わりたかった。オレだったら無条件で受け入れて、誰よりも甘やかしてあげられるのに。

 あんなちんちくりんの何処が良いのだろう。
 自称エリート刑事であり、十も離れているワリに、肝心なところが抜けていて、頼りにならなそうな大人。聞けば第一の事件では山野アナの死体を見て嘔吐してしまい、使い物にならなかったと風の噂で聞いていたし、いっつも上司の堂島さんに怒られているイメージしかない。髪の毛には常時寝癖がついているし、着用しているスーツも毎日変わらない。聞けば一張羅とか。身嗜み以前の問題だ。しかもサボリ魔で、気付けばうちのフードコートでソフトクリーム買ってだらけているし――と悪口を挙げればキリのない人。これで風評が悪ければ、意地でも悠を引き剥がしていたところだが、ズボラなだけで悪い人ではないと思う。駄目な大人の代表例にすぎない。
 一部、重なる部分はあるものの甲乙つけるとなれば勝てる自信がある。それともそういう人だからこそ、しっかり者の悠には惹かれるものがあったのだろうか。けど、それならば不運の星の下に産まれたと豪語できるオレでもいいじゃねーか。いや、御託はいいんだ。要は悠に選ばれたのが自分ではなく、よりにもよって身近なあんな大人なのが気に食わないだけなのだ。





 悠の心の拠り所を知ってしまい、だからと言ってはっきりとした行動に移せないまま、季節は移ろっていった。幸い、悠にとっても進展は無かったようで、他の仲間達に二人の際どい関係を知られることは無かった。このまま曖昧なまま終わらないだろうか。いつしかそう願っていた。悠がこの八十稲羽市を離れてしまえば、圧倒的に有利になるのは同級生の立場を持つオレだ。それだけで連絡を取るのも、会うことにも理由をつける必要などない。消極的な気持ちのまま夏が通り過ぎ、街路樹が黄や茜色に染まりだした頃――事件は起きた。

「……」

 家主が居なくなり、その家をちっちゃな身体で一生懸命、温かく守っていた女の子でさえ居なくなり、居候の身の彼が独りぼっちで居る一軒家の前にオレは居た。独りぼっちであろう彼――悠が居るであろう部屋の窓を見つめるが、こちらに気付き、開かれることはない。また、ベッドの上で縮こまって、下に俯いたまま己を責めているに違いない。

 一日目は玄関の前でピシャリと門前払いされ、二日目は通されたものの目の前でベッドの中に不貞寝され、二度とその顔を見せなかった。三日目はこの家に居るのは辛かろう、泊まりに来ないかと誘ったが「二人が不在の間にこの家を留守にするのは忍びない」と言われ、それでも引き下がらなかったオレに「今の俺に温かな団欒を見せ付けるのか」と咎める口調で言われ、やはり門前払いされた。もう言葉を交わしても傷つけるだけかと四日目からは黙って傍に居ることを選択したが、相棒の立場で出来ることはたかがしれた。

 手ごたえのないまま日々は過ぎ、十日目の今日。
 学校で無理矢理な笑顔を浮かべ「気を遣って貰わなくても俺は大丈夫だから」という全然、大丈夫じゃない定型句を受け取りつつもまた来てしまった。
 ジャンバーのファーに口元を埋めつつ、今日こそはと意気込む気持ちといい加減、諦めるべきなのかと惑う心。此処まで来るとありがた迷惑だろうか。いいやでも――と思ってしまうのは以前、一歩引いた結果が結果だったから。
 いつでも頼って欲しい旨のメールだけ出して、玄関に居座ろうか。いや、それって不審者やストーカーの域だよなぁと堂島家の前を行ったり来たり、ウロウロ往復していると、目が合った。よりにもよってこんな状況下で一番、会いたくもない人――ジュネスのビニール袋を掲げた足立さんだった。

「あれっ、陽介くんじゃない。何しているの?」

 人当たりの良さそうな笑顔を貼り付けてヘラリと笑う足立さん。ここで会ったが百年目の気持ちだが、オレの事情など露知らずな人には無用と言うもの。引き攣りかけた表情を騙し、友好的な会話を紡ぐ。

「そーいう足立さんこそ。どうして此処に?」
「堂島さんに着替え取りに行くように頼まれちゃってさー、ったく人使い荒いんだから……と、いうのは建前で、本当のトコロ、悠くんの様子を見て来いって言われちゃったんだよね。どうよ、悠くん。元気ー? ……な訳ないだろうけど」
「少なくとも元気ではないと思いますよ」

 他人を拒絶し、殻に閉じこもるばかりの悠に手を拱いていたことは言わず、あやふやに答える。この人がこの後、堂島家を訪れたら悠はどういう反応を示すのだろう。表向きの理由が理由なのであからさまな拒絶は出来ないだろう。外で待たせて、さっさと仕度を用意して、渡して「はい、さようなら」なのか。学校でそうあるように、人前では「平気だから」と告げて日常どおりに振舞うのか。
 それとも、それ以外の回答がこの人だと出てくるのだろうか。水飛沫の舞う中、瞳を細めて、滅多に開かない口元を開き、綻ぶような笑顔でこの人を誘う悠の表情を思い出してしまい、いても立ってもいられなくなる。
 幸いにも何も知らない足立さんは、オレの歪んだ表情に気付く様子などなかった。

「あ、もしかして花村くんも悠くんを心配して来たの? なら、一緒に行かない? 僕一人だと心細いんだよねー」
「いえ、遠慮しておきます」

 くるりと足を反転させ、堂島家から遠ざかる。背中越しに「えーっ」という足立さんの声が聞こえたような気がしたが聞こえない振りをした。出鼻をくじかれた上に、どうせ行ったところでという気持ちの方が強かった。
 いや、そんなことよりもオレなんかよりも悠の近くに居る――と思われる足立さんが軽くあしらわれれば良いのだと言う思惑もあった。幾ら、足立さんだって菜々子ちゃんや堂島さんよりは悠の中を占める割合が少ない筈なんだって軽く見ていた。

 オレが止まらぬ姿を見て、仕方無さそうに堂島家の玄関の中と消えてゆく足立さん。空の色が茜色から群青、漆黒へとグラデーションするように変化してゆき、それでも出てこなかったその姿に、オレはいずれ激しく後悔することになるのだけれども。





 空の上を陣取る太陽と遥かなる夏の空に見守られて過ごしたアレは何だったの?
 次の季節へと順調に足を進め冷えた夜に、二人っきりで長い時間、何をして過ごしていた?

 あの触れたら柔らかそうな唇にキスしたの?
 泣きじゃくる温かな身体を抱き締めて、人に言えないようなことをしたの?

 聞きたいけど、聞けないことが積もり、蓄積し、闇と化す。
 狂おしい程に嫉妬した自身を認めていたから、シャドウとなることは無かったけど。見てしまった光景達がカマイタチとなり、無防備な心に突き刺さる。痛い、ドロリと憎悪が溢れ出す、もう止められない。

 深くついた傷は、時に愛する人さえ攻撃してしまう。

「何でだよっ、アイツは……足立はっ! 小西先輩を殺した殺人犯なんだぞっ!! そもそもアイツがこんなことしなければ菜々子ちゃんが巻き込まれることだって無かったっ!!」

 八十稲羽にひらひらと雪の妖精が舞い降りた頃。
 病院から消えた足立を追うため、単身飛び出していった悠。その後を追い、一度は姿を見失ったものの、必死に探した末に見つけた背中――前に銃を掲げる足立の姿を認めた途端、自然と悠を抱き締める形で引き止めた。けど、悠の瞳に映っていたのは傍に居るオレなどではなく、捨て台詞を残して闇に溶け落ちるように居なくなった足立の姿だけ。雪よりも白い冷え切った指先が虚空を掻く。
 姿無き足立を追いかけようと身を捩った悠にイラつき、つい本心を言い放ってしまった。けど、例えそうだったとしても、オレが悠に対して言ってしまった言葉はこれ以上ないくらいに最低で、最悪で、鋭利な刃でぐしゅりと傷を抉る様なものでしか無かった。

「そんなことっ……お前に言われなくたって俺が一番よく知っているっ! 知っているからこそっ……!!」

 声無き咆哮が辺りに木霊す。
 悠は足立を追うことは止めたが、力尽きたように薄化粧の道路に膝をつき、大粒の涙をボロボロと幾つも幾つも零して泣いていた。まるで赦しを請う、幼い子供のように。

 大好きなんだって。
 助けてあげられなかったって。
 何でもっと早くに気付いてあげられなかったのかって。

 皆に賞賛され出来上がった『リーダー』の仮面を壊して、自分を責めて責めて責めて、心をぐしゃぐしゃにして、オレの存在など無視して、極悪の罪人のように懺悔とも取れる言葉を呟く。

 それがオレには自身を呪うための呪詛にしか聞こえなくって。漸く気づく。あぁ、だからオレはガッカリ野郎のままなんだって。肝心な時に大切な人を助けてあげられず、それどころか自身の想いを抑えきれずに大切な人に押し付け、傷つけてしまう。似たようなこと一度していて、悠に助けられたって言うのに。自分自身に向き合った筈なのに、オレは後悔から何一つ、学んでいない。

 ワックスをかけて整えた髪が、雪の湿気を含んでしっとりと落ちてくる。
 魔法をかけられて足が凍り付いてしまったかのように、オレはその場から一歩も動くことが出来なくなっていた。





「面会希望? いつもと同じ人ですよね……会う気はないとお伝えください」

 絶対に会わなくちゃいけないと思ったんだ。

「え、違う? 誰だよ、あの二人以外に僕に面会希望する物好きなヤツは……」

 あの夜を捨て、自称特別捜査隊の『リーダー』の仮面を再び纏い、全てをまっとうした悠を見てしまったからこそ、会わなくちゃいけないって。

「こりゃ、また意外な……分かりました、面会に応じましょう」

 天井付近の小さな窓から僅かな光の粒子が零れ落ち、薄いアクリル板越しにドアがカチャリと開くの見つめる。暗がりの中から現れたのは灰色の霜降り模様の上着を着た足立透の姿だった。相変わらずヘラリとした笑みを浮かべていたが何処か寒々しかった。

「久し振りだね、花村くん」
「……少し、痩せました?」
「こんなところに放り込まれたら誰だってそうなるさ」

 初っ端から喧嘩を売るように挨拶を無視してみたが歯牙にもかけられない。悠のそれよりもどんよりした鼠色の瞳がオレを値踏みするようにジトッと見つめる。

「で……何の用? まさか暢気の世間話しに来た訳じゃないでしょ? まぁ、君の顔を見ていれば大体、想像はつくけど、さ」
「何で悠からの面会希望、拒絶し続けているんですか?」

 脈絡なく核心をつくと、ピタリと会話がストップする。だが、足立さんの表情は空疎のまま、少しも変わらなかった。軽い沈黙の後、何事も無かったかのように会話が再開する。

「会ったところで何をするってのさ。寧ろ、君にそんなことを言われるのは少しばかり心外かな」
「アンタ達、そーいう関係じゃなかったのかよ……」
「へぇ……知ってて君、僕のこと生かしたんだ」

 直接的な単語を言いたくなくて濁したが理解できたらしく、ニィっと口元をあからさまに上げる。真犯人だと分かった後の挑発的な態度こそ無かったものの、台詞には悪意が滲み出ているのが分かる。
 お互い手が出せる位置にはいない。最早、仲介者が居なければこうやって会話することさえ難しい相手だ。記録を取り続ける看守の姿をチラリと見つつも、負けじと応戦する。

「オレはアンタとは違う。気に入らないからって癇癪を起こす餓鬼じゃないんだ。いや、餓鬼だってそこまで低俗じゃあない。餓鬼じゃないと言い張って、図体ばかり大人の方が、余程も聞き分けがなくて狡賢くて性質が悪い」
「そーやって正義を振りかざすところが『餓鬼』だっての。ま、どうだってイイけどさ。君らの行動は正しかった、世のため人のためとなった、だから僕が此処にいる――それでイイんでしょ?」
「けど、そんなアンタを……アイツはずっと忘れられないでいる」

 確かに悠は『リーダー』としての責務を最後まで果たした。皆が望む『リーダー』で在り続けたし、これからも望まれるままにその姿で居るのだろう。きっと、決して結ばれてはいけない線が繋がっていることなど知ることもなく。
 何も知らない人から見れば微細な変化に過ぎなかったのだろう。元々少ない悠の口数が更に減った。皆と会話していても何処かがらんどうで、ほわほわと気持ちを揺らしていた。気づけば、此処――拘置所と現実世界を遮断する高い塀を、寂しそうに見つめている悠の姿があった。その口元が静かに、この人の名前を呼び続けていることも。

「……僕には関係のない話だね」

 ピシャリと冷たく言い放たれ、激情に駆られる。ガタッと音をたてて椅子から立ち上がった時、同時に看守が立ち上げらなければ透明な壁に拳を叩きつけていただろう。悠のひたむきで、まっすぐな気持ちを踏みにじられているようで腹立たしかった。

「何だよ、アイツだけの思い上がりだってーのかよっ! アンタが中途半端に誑かしたりなんかしたからじゃないのかよっ!!」

 冷たくほの暗い現実を冷静に見つめているようで、ロマンチストな部分を悠は持ち合わせていた。だからこそ、見て見ぬ振りが出来ず、無理だと分かっていても、あらゆる人々に手を貸し、助けてきたのだ。時に厳しく、時に優しい言葉をかけながらも、何処かに自分自身を重ねて――様々な人とのコミュニティを築き上げた。
 人のためになることをすれば、自分の願いも叶うんだって。悠はそれを『演技』だと自嘲していたようだが違う。純粋に『理想』を追いかけ続けてきた結果なのだとオレには分かる。分かるからこそ、居た堪れなかった。

「誑かした? あーそうさ。ちょっと優しくして、ちょっと甘やかしてやったらコロっと騙されちゃってさぁ」

 居た堪れなかったさ。

「頭をひとなでして、顎の下をくすぐるとすぐふにゃっとなって。猫みたいでさぁ。ペットのつもりで飼わせてもらったよ」

 どうして――こんなヤツに懐柔されちゃったんだよって。
 どうして――こんなヤツに先を越されちゃったんだろうって。

「そうとも知らずに全部、赦しちゃうんだからバッカだよね。大事なもん、全部、僕に明け渡しちゃってさ――理想論振りかざして、リーダー気取っていたくせに本当に馬鹿なヤツ」
「それが本心ですか?」
「あぁ、そうだよ。僕が憎いだろ、殺したいだろ、逃したことを後悔しているだろ。この世界のルールに僕は従うと言ったよね? だけど、分かってるんだろう? この世界の法は僕を完全に裁くことなど出来やしない。君達は世紀の極悪人をあの時、野放しにしてしまったんだ」

 無知は幸せなんかじゃない。
 この人が幾ら容疑を認めようと、異能の力を持たぬ者にテレビの世界を知ることなど出来やしない。明確な自供で立件は可能だろう――けれど、殺人としての立件は難しいだろうと直斗が言っていた。どんなにこの人が罪を認め、超常性を排除した納得の出来る理由を捏造できたとしても証拠は伴わない。殺人との因果関係を証明することは無理だろう、と。
 怨恨に表情を歪め、薄い壁越しにオレを罵る足立さんの言うことは全て正しかった。けれど――歯を食いしばることで怒りを打ち消す。それでも悠はアンタを信じていたんだ。

「アンタがテレビの中に消えていった日、悠が……言っていた」

 向けられた憎しみが全て本物だと信じられれば、どれだけ良かったんだろう。

「不器用で、勘違いされやすい人だけどアンタはアンタだって。幼稚な遊びに付き合ってくれたり、独りぼっちで泣いていた自分を幾らでも放っていけたのに一晩中、傍に居てくれたんだって」

 本物だったなら、衝動と憎しみだけでアンタを殺せたかもしれないのに。
 小西先輩を、悠を、オレの大事な人をことごとく掻っ攫っていった人――憎しみが無い訳じゃない、悔しくない訳じゃない、赦せる筈がない。けど……それでも信じ続けた悠の姿に、オレは此処まで来る決意を固めたんだ。

「……それだって、隙を見つけて付け込んだだけだよ」
「なら、どうしてそんな顔をしているんですか」
「……」

 『悠』という単語を出した途端、違う方向に崩れた表情にこの人の本心を垣間見たような気がした。たぶん、悠はオレ達の知らないこの人を知っていて、誰よりも深く愛していたのだと思う。そして……それはこの人とて同じだったのだ。
 昇華することのない感情を胸中に収めたまま背を向ける。これ以上、話をするつもりはなかった。後のことはこの人次第だ。オレの話を聞いてどうなろうと知ったことではない。嘲笑されようと、絶望しようと自分の道は自分にしか切り開けない。冷たいドアノブを握り、現実へと続く唯一の道を開くべく、右へと回す。

「二度と会えないことを祈ります」

 此処には居ない人に問いかけるように悲哀に崩れた表情に、希望を託すのと同時に。それでも尚、同じ罪を犯そうとしたその時は容赦しないと言い含めて、オレはその場を後にする。





 だから。
 冷たく触れた金属製のドア越しにある、日の光さえ殆ど届かないひんやりとした空間で、小さく小さく紡がれた言の葉は途切れ途切れにしか聞こえなかった。

「馬鹿のもの一つ覚えみたいさ、ヘラヘラ笑って『会いにくるな』『キミなんか嫌いだ』『僕みたいなヤツにコロっと騙されやがって』って言えばいいの?」

 背中越しに零れ落ちたのは告解か。

「そう……出来れば良かった。けど、自信がない。あの子の表情を見たらきっと全て赦してくれるって安堵してしまう」

 それとも切実なる愛の告白だったのか。

「駄目な大人を見守るジコチューな餓鬼だったら良かったのに……優越感から来る愛情なら良かったのに…………最後の最後まで僕の言葉を汲み取って、あの子は忌み嫌った『リーダー』の役割をやり遂げた。僕がそうしろと言ったから……」

 切々と語られる言葉に応えることなく、ただ静かに瞳を閉じ、聞き入る。
 いずれにせよ、本心からの言葉だったに違いない。

「馬鹿な子、こんな僕の全てを受け入れて…………僕の罪を知らずに戯れを、関係を持って、怒って当然だったのに、なのに僕を殺さなかった。馬鹿な子、本当に馬鹿な子。二度と会わないよ、会うもんか」

 今、彼の胸中を掠めているのは、数々の思い出の中で刻まれた、悠の慈愛に満ちた表情なのだろうか。

「……さようなら、悠くん」

 震える声色が耳をくすぐり、遣る瀬無さに胸が詰まった。





 現実から隔離された閉鎖空間から出たオレは家に帰る気になれず、高台の方へと足を向けた。そんな気持ちを見透かされたように、舗装されていない土階段を登った先で待ち受けていたのは静かに佇む悠の姿だった。

「足立さんと面会したんだって?」

 風に吹かれ、露になった額と瞳。確実な意思を孕んだ瞳がオレを射抜く。悠の足立さんに対する執念が切実に伝わってくる。叔父さんや自分は駄目だったのに、何故よりにもよって花村が、と。そんなの誰よりもオレが聞きたかった。

「変わってない? 何か言っていた?」

 矢次早に問いかけてくる声が吹き抜ける風のように右から左へ流れていく。一向に答えようとしないオレに痺れを切らし、とうとう強く肩を掴まれ、揺さぶられる。

「何か言えよ、花村っ!」

 会いたいのに、会えない。会ってもらえない。拒絶される。哀しい。苦しい。
 どうしようもないジレンマをぶつけられる。けれど、あることを決意したオレにそれは些細なことでしかないなかった。
 何故、オレが足立さんと話したかったか。足立さんが何故、オレとの面会に応じたのか。あの人は何を伝えたかったのか。今なら漠然とだけ分かる。そしてその上で導きだした答えも。

 自然と下がる形となっていた顔を上げる。悠の悲哀に満ちた顔がよく伺えた。さらにその先には自分達が住む街並みが見える。先日まで霧がかり、一寸先ですら見えなかった、オレ達が守った街が。晴れ渡り、雪化粧した屋根が太陽の恩恵に光るクリアな風景。照準を悠に合わせるとゆっくりと口元を象り、はっきりと伝える。

「オレ、悠のことが好きだ」

 雪みたいに純粋で、綺麗な銀色の瞳が大きく見開かれる。

「好きなんだ」

 そうなんだ。
 オレにとって当たり前すぎだったこの感情を、一度も悠に伝えたことなんて無かった。

「大好きなんだ」

 悠の顔が、街並みが霞がかる。あれ、おかしいな。霧はなくなった筈なのに。自覚した頃に温かな大粒の涙がボロリと溢れ落ちる。

「これで……悠の気持ち、分かるかな? 同じスタートラインに立てたかな?」

 決して振り向いては貰えない人に恋をする。
 分かっていて世間体を気にすることなく、たっぷりの愛情を注ぎ込み、自らを余すことなく明け渡し。それでも尚、待ち焦がれることしか出来ない恋慕を抱く。人はきっとそれを哀戀と言う。

 オレの前では意図して絶対に崩れなかった表情が、やっとくしゃりと歪む。大きく腕を広げて、受け入れるように力いっぱいに悠を抱き締めた。





 大丈夫、心配するな。一緒に弔ってやるから――。

 泣きじゃくる悠が、自分が落ち着いたら辰姫神社に行くんだ。一向にオレに懐かず、悠の周りばかり跳び跳ねているキツネに頭を下げて、お願い事をするんだ。叶うと評判の絵馬に願いをしたためるんだ。



 どうかこの恋が、世界中の人から後ろ指を指されようとも成就しますようにって。
 どうかこの恋が、世界中の人に祝福されずとも優しく弔われますようにって。





2010.6.21



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