人生の分岐点が何処にあるかなんて誰にも分からない。

「はい、珈琲」
「ありがとうございます。すみません……ご迷惑をおかけしてしまって」
「あぁ、いいっていいって。……あーもう、僕としたことが。この前の使いの駄賃に休憩時間をやろうなんて、超ありきたりな言葉に騙されるなんて。堂島さん、自分は忙しいからって、すぐに僕に押し付けるんだから」
「……花村が起きたらすぐに帰ります」
「げっ、聞こえちゃった? いやいや、気にしないでよ。本当に、うん」

 ふとした瞬間に上昇気流に乗りひょいひょいと栄光への階段を登っていくヤツも居れば、不幸の連鎖に陥り最後は冷たい縄の餌食となり人生を終えるヤツも居る。極端な例だと嘲笑する輩も居るだろうが、事実を知った途端、愕然とするヤツも多いことだろう。人の移ろいも、儚きこの世も酸いも甘いもだけでは済まされない。

「に、しても。大の高校生が熱中症とは……何をしてたの?」
「その……ちょっと過激に遊びすぎたと言うか。はしゃぎすぎたと言うか」
「近くに此処があったから良かったものの。若いからってあまり羽目を外しすぎちゃ駄目だよ〜。これ、僕の経験談に基づく持論だから信憑性バッチリだよ」
「はぁ……」

 さて、此処に過去の邂逅により、自身の基盤を大きく変えた三人の話がある。

「……」
「どうしたの、悠くん?」
「足立さん」
「ん?」

 一人は人に対して必ず作り上げていた拒絶オーラが緩和され、コミュニケーション能力が僅かだが上昇した。

「こうして足立さんと顔を突き合わせて珈琲飲むの、初めてですよね?」
「初めてだよ?」
「横にこうやって花村が寝てて、真正面に足立さんが居て。このシチュエーション、デジャビュを感じます」

 一人は逆に過去のトラウマより、初対面から本心をあからさまに曝け出すことを止め、他人と一線を介して付き合うようになった。
 また一人は子供に対する認識をやはり僅かだが改めた上に、ある人間に対してだけは無自覚に他人より一歩踏み込んだところで接するようになっていた。

「いやいや、気のせいでしょ。だって僕達、この田舎町に一年以内に引っ越してきた新参者だよ。昔から住んでいたならともかく、そんな訳ないじゃない」
「けど、逆を返せば俺達は全員、かつて都会に住んでいた三人でもあるんです」
「え、と。まぁ、そうちゃそうだけど……」
「接点、あってもおかしくないと思いません?」

 邂逅の末に別れ、異なる道を辿った彼らが互いの存在を忘れながらも十年後、数奇の運命の導きにより再び巡り会っただなんて。
 僕以外の二人が思い出すことは果たして有り得るのだろうか。




―― 仔鳴と仔花とダメ男のブレイクタイム ――




 どうしてこんなことになったのだと、小一時間ほど自分を問い詰めてやりたい。

 ドドドドドと横から追撃音が迫ってくる。逃げ場を失い、固く身構えていたものの、ガキョンと首を違える程の衝撃が全身にビリッと伝わった。ぐはっと血反吐を吐く間もなく、黒い丸い物体から腹へ二発程打ち込まれたボディフロー。おまけに複数の小さな手がわらわらと飛び出し、足元をガッチリときつく拘束すれば身動きなど取れない。これが生死に関わる場面での出来事だったなら、僕は間違いなくあの世への片道切符を手にしていただろう。

「あらあら、透くん。大人気ね。若い男の子、今までに居なかったから皆、嬉しいみたい」

 傍では、ちゃはっと効果音がつきそうな笑顔でピンク色のエプロン姿の女性が微笑ましく笑っている。スポーツなどしていない華奢な肩にのしりと乗っかり「きゃははは」と頭に頬杖をつくガキをそのままに助けを求めるが「頑張ってね」と手を振られ見捨てられた。これ程、聖母たる職業の女性を憎いと感じたことはない。次々と圧し掛かってくる重みに何とか立っていられたのは周囲にわっさわっさと集まったちっちゃな物体達に押され、引っ張られで上手い具合に重心が取れているだけで、本当は気を失う寸前に近いってのに殺生な。
 ま、待ってくださいよと言う情けない叫びは、子供特有の高い声に無情にも掻き消された。





 事の始まりはこうである。

「あら、透ちゃん。見ない内に大きくなって。お父さんから聞いたわよ、名門の私立高校に推薦で受かって、通っているんですって?」

 偶々、家に来ていた父方の叔母とバッタリ出くわし、聞き飽きたお世辞から流れるように始まった下らない世間話に対して空返事していた時のことである。呼吸しているのかどうかも怪しいノンストップ振りで話した後――正味、時計の長針が十回刻まれた――そうそうと思い出したかのように始めた甘い誘惑が全ての発端であった。

「家で殆ど机に向かっていないのに成績優秀だなんて叔母さん、羨ましいわ。うちの息子にも爪の垢を煎じて飲ませたいぐらい。あ、そうだ。それぐらい優秀な透ちゃんなら問題ないわよね。託児所のバイト、してみる気はない? 子供達の面倒を見る簡単なお仕事」
「アルバイト……ですか?」
「そう、叔母さんが経営しているところのなんだけどね。今、ちょっと人手不足なの。もし、しっかり者の透ちゃんがやってくれるっていうのなら安心だわ」

 この頃は親の厳しい目もあり、今以上に体裁を気にしていたため表向きは優等生で通っていた。学校の勉強も授業を一通り聞いていれば難なくテストで満点を取れていたため信頼性に関してはばっちりだった。
 だが、しかし。そんな僕でも当時、一つだけ困っていたことがあった。小遣い不足である。一般より少々裕福な家庭であることから額はそれなりに貰っていたのだが、青少年がいずれが通る道を例に漏れず通過していたため、万年金欠状態だったのである。

 ハードカバーの写真集は意外と高い。図書館で借りられるものでもないし、使い古しの中古なんてまっぴらごめんだった。と、なると選択肢は新品のみ。とまぁ、いらぬ拘りで月初めに満たされた端から無くなってゆく札の束をひもじい想いで見ていたイタイケな青年としては叔母の提案はまさに渡りに橋だった。父親には私から話をしてあげるわと面倒な両親の説得まで引き受けてくれたものだから、考えることなく二つ返事で了承する僕が居たのである。

 結果、このザマだ。

「……僕はガキ共のパワーを舐めていたようだ」

 まるでゲーム画面の黒ウィンドウに表示される主人公の思惑さながらの台詞を吐き出し、取ってつけたぐらいに不釣合いな真新しい水色のエプロンを放り投げ、休憩前に手渡されたペットボトルの封を切る。薄ピンク色の花弁が散り、若芽が芽吹きだしたばかりの正門前の木々を見上げながら、部屋の前にあるコンクリート製の靴履き場に座った。

 体力を持て余したガキ共は保母――この頃はまだ、この呼び方が一般的だった――と共に園庭に解き放たれ、更なるヤンチャっぷりを見せていた。まだ吹き付ける風が冷たく、肌寒いこの季節でも半袖半ズボンの男の子が目の前でずべしゃあと派手に転ぶが何のその、すぐにムクリと起き上がり駆け出す。単純だ。
 女の子は女の子で園庭隅の鉄棒付近で集団を作り、ままごとならぬ世間話に身を寄せ合い、何とかちゃんが何とかくんが好きでとヒソヒソ話。時折、こちらをチラチラと見られている気もするので僕の品評会も兼ねているのだろう。これはこれでマセていらっしゃる。

 恐ろしい世の中だなぁ。
 自分だってガキの部類なのに、こんなヤツらに国の未来はいずれ引っ張られることとなるのかと想像し、深々と溜息をつく。叫びすぎて乾いた喉を潤すため、ペットボトルの清涼飲料水を一口――。

「――っ!?」

 飲んだところで気配を感じた。やっとガキ共から解放されたと完全に気を緩めていたようだ。勢いのあまり、外からでもゴクリと聞こえるぐらいに急激に飲んでしまい、喉がゴリッと痛む。
 ってぇ! つか、何でふつーに僕の横に座って本を読んでいるガキが居るんだよっ!
 僕の横にはいつの間にやら備え付けの置物のように静かにちょこんと佇み、本を読む一人のガキが居た。存在を認識した今でもその存在は希薄なもので、本当に此処にいるのかといぶかしい気持ちになる。

 僕にしか見えないとか、幽霊とかじゃないんだよな、などと園庭に遊ぶガキと横に居るガキを交互に見比べてみたが、隣のガキはまったく動じなかった。普通、挙動不審なヤツが居たら、ちったぁ興味持つ年頃だろうがぁ! などと一人突っ込みしてみるがやはり動じない。小さな膝頭を揃えて行儀良く座り、こちらに目をくれることなくパラリと白い指先が本のページをめくった。

 どうどうと自身を落ち着かせ、清涼飲料水をもう一口。なにガキ一人が気配無く横に居たくらいで動揺しているのだ。試しに触れるなり、話しかけるぐらいしてから判断しても遅くはあるまい。少なくとも幽霊かどうかくらいは分かるだろう。急に赤の他人に触れるのは躊躇されたため、とりあえず話しかけてみることとする。

「……本、好きなの?」

 話しかけられたにも関わらず、ガキはこちらを見ようとしない。珍しい髪色が太陽の光に照らされ、輝かしく光るのが相反的だった。

「…………うん」
「み、みんなと遊ばないの?」
「………………居ても邪魔になるだけだから」
「びょ、病気で遊べないとか、そーいうんではない? あ、いや、言いにくかったら言わなくても」

 最後の応答は台詞すら発せられず、首を僅かに横に振るだけだった。
 実際はもっとたっぷりと間のある会話だった。その間、ガキの視線は微動だせず。
 正直「何なんだ、こいつ」としか思えなかった。大人――厳密に言うと僕とて未成年だが――を舐めているとしか思えない。それか極度のコミュ障だ。今まで生きてきた中で一番、会話に気を遣った気がする。ずんぐり、むっくりするおもたーい精神的疲労だけが残っている。これが大人社会でしか経験できない淡白な人間関係の実態ってヤツなのか。(聊か、違う気もするが)

「あぁ、悠くんのことね。あの子は入った頃からああなの」
「子供らしくないと言うか……ご両親が不在の方が多くて、ああなっちゃったと言うか。けど、手のかからない良い子だから」

 後に他の保母に聞いたところ、あれは当たり前の態度だから当たり障り無く付き合えばいいのよと諭された。よくよく見ると、空気を読まないガキ共も自然と『その子』だけは避けていた。存在が居ないものと認識されていると言えばいいのか。

 あぁ、そうかと納得すれば良かった。他の連中と同じように行動していれば、それまでだった。

 けど。
 日々、他のガキからの力加減の無いタックルを受けたり、「顔も性格もパッとしないバイト」と女の子から失笑され冷評を受けても、『その子』の動向は気にしていた。そ、僕はただの冴えない高校生アルバイトだから気にしなくてもイイんだけどさ。何となく、あの本に向けられた冷たい瞳が、僕の幼い頃のソレと重なって見えたんだ。
 僕には両親が居たけど、専業主婦の母親が居たけど、出来の悪い子と虐げられて育ったようなものだったから。母からすれば今の進学先だって最低ラインにすぎない。今回のバイトが許されたのだって、やっぱり駄目な子と『見放された』に近かった。『その子』の境遇も似たようなものなのだろうかと考えると益々気になって、気にするなと言う方が無理だった。

「それ、おもしろい?」

 いつものように、いつもの位置で、飽きもせずに本を読み続けるカレに問いかけると、カレは酷く驚いた。本を読むのに最低限と言える細さだった瞳を見開き、漸くこちらを向く。向けられた視線は髪色と同じ珍しい色合いで光が差し込むと鮮麗に輝いた。下に俯いてばかりのカレの顔を初めてまともに見れた瞬間だった。

「前にミス大受賞した人の文庫本だよね? 医療ミステリーとか。難しくないの?」
「…………難しくないよ。ライトノベル並み」
「へぇ」

 初対面が初対面だったので話しかけられるなど夢にも思っていなかったのだろう。小さな声でもにょもにょと答え、頬を少しだけ赤らめた状態で視線は本へと戻っていった。
 その日、それ以上の会話はしなかった。返事が返ってきたことに満足して、急激に話しかけすぎてしまえばカレはまた自分の殻に閉じこもり、返事を返さなくなるだろう。そこらの好奇心旺盛なガキや保母の二の舞になるのは目に見えていた。

「家にあったから僕もちょっと読んでみたけど、確かにミス大の割には軽い読み物だね。主人公も飄々としていて感情移入しやすかった」
「……難しい言葉も噛み砕いて書いてあって、読みやすい」
「あー、そうだね。外科オンチという設定が活かされていてイイよね」

 一日、一日。日を置いて前日の続きである一言、二言の会話を交わしていった。

「続編もおもしろいよね」
「医療現場って本当にこんな感じなのかなってワクワクする」
「いやーっ、流石にあそこまでぶっ飛んでないでしょ。けど、その中にエッセンス的な要素でリアルな現実が描かれているのは評価できるね」

 会話の間が段々と少なくなり、間に形成されていた壁が少しずつ打ち砕かれ、空いていた距離がちょっとずつ近くなる。最初は僕とちょっと似ているかもと気になっただけだった。カレも僕と同じような人生を歩むのかと悲観した訳じゃないが、救えるものは救いたかった。後に全てに絶望した際、それは自身の傲慢でしかなかったと切り捨てる感情であったが、この頃の僕にはまだ人らしい感情が残されていた。手を伸ばすことで少しずつ打ち解けていく感触に実際のところ、僕には僕なりの価値があるのだと僕自身、救われていたのかもしれない。気がつけば僕達は年の離れた友達になっていた。

「キャベツ好きなの?」
「好きで悪い?」
「ううん。あ、ほっぺにご飯粒、ついているよ」
「え、どっち〜?」
「えぇと、お箸持つほうが右だっけ、左だっけ……うぅん?」

 ガキ共が園庭で遊ぶ時間以外も添うようにちょんと隣に座るようになった灰色の小さな頭。長針と短針が完全に重なり合う丸時計の下、箸を持った手とそうじゃない手を上げて悩んだ末に、大きなくりんとした同じ色合いの瞳が僕を見上げ、小さな指先がそっと頬に触れた。

「取っちゃう方が早いね」
「まー、そりゃそうなんだけど……意外と大胆なんだね、キミ」
「そうなの? あとオレは『キミ』じゃない、『ゆう』って名前だよ」

 と、言うかすっかり懐かれてしまったようだ。今のように、僕の前だけでふわんと春を感じさせる柔らかさでニコッと表情を崩すことも増えた。俯いてばかりの時は気づかなかったが、これがなかなか整った顔立ちなものだから表情が多様になったことで一気に花が綻んだようだった。実際のところ、その笑顔に中てられた女の子共が「どうすれば悠くんと仲良くなれるの?」と僕に怖い笑顔でジリジリ迫ってきたこともあったぐらいだ。まぁ、それは置いておいて。
 拒絶オーラで空気が読める大人は愚か、ガキ共まで遠ざけていたものだから、コミュニケーションが取れないおとなしい性格だと思っていたが、ちょっと違うらしい。仲良くなる切っ掛けとタイミングを掴めないマイペースさと、ちょっぴり臆病な天然さんなのだと見た。

「ねぇ、あだちさん」
「なに」
「お腹いっぱいだから。おれのロールキャベツ、半分食べる?」
「えっ、いいの!?」

 キャベツはいいよね、万能だよね。漬ければ前菜、肉を巻けば主食、ぶっこめば汁物、砕けばデザートになるんだからと聞かれてもいないのに饒舌になってしまい、クスッと笑われてしまった。

「あだちさん、おれより子供っぽい」
「しっ、失礼な。こー見えても僕は有名進学校に通う、エリート高校生なんだよ」
「自分で言っちゃうの、それ?」

 十も離れている子供に的確なツッコミを受け、軽く流したが悪い気はしない。物分りの良い弟が居たらこんな感じだったのだろうか。
 お昼寝の時間となり、年齢相応に「あだちさんの隣がいい」と駄々をこねたカレをすっぽりと横に収めながら、けどなと思考を巡らせる。触れると柔らかい髪の毛、よく見ると整った顔立ち、数秒もしない内にすーすーと聞こえた寝息に、随分と慕われていると感じながらも正反対の感情が疼くのが分かった。
 似ていると思ったけど、キミと僕はやっぱり違う。キミは僕と違って万能で、カッコよい男の子になるんだろうなって。こんなにも小さい頃から本が好きで、目立たないものの見た目は小奇麗に整っている。拒絶オーラを含む独特の雰囲気も、年を重ねれば個性の一つとして受け入れる者が出てくるだろう。僕なんぞ、あっという間に追い越してしまうに違いない。

 その事実が寂しいのか、妬ましいのか、今の僕にはよく分からないけど。
 本当にそうなるかも分からないのに、そこまでキミの未来を想像してしまうこと自体が気持ち悪いことに気づいてしまいヤメヤメと首を振り、アルバイトの一身分へと戻る。腕の中で寄り添う温もりが気持ちよくて、瞼がとろんと落ちる。少しだけと思っていたが、導かれるように誘われるように、いつの間にか僕も眠りについてしまった。

「あらあら。ちょっとコレ見てよ」
「ふふっ、本当に二人は誰よりも仲良しね」

 写真を撮っちゃいましょうかなどと言われるぐらいに、二人してあどけない顔を浮かべ、抱き寄せ合いながら。



 この後、訪れる太陽神の子供の光臨にやっと落ち着きかけた日常が波乱に満ち溢れてしまうことを、この時の僕達はちっとも想像していなかった。






「男同士でべったりくっついて寝てるなんて変なヤツらっ!!」


 鼻ちょうちんがバチンと割れ、その音に驚いて起きちゃいました並の衝撃を受けたような気がした。ガバッと弾かれるように起きたが、いまいち思考が働かない。何だよもぉ〜と髪をポリポリと掻きながら愚痴を零せば、同じように横でむくりと起き上がり、ふわっと欠伸を噛み締め、目をコシコシとこする悠くんの姿があった。寝ぼけ眼なところがあどけない。

 あれっ、そー言えば僕、バイトの身分で寝ちゃっていたのか。叔母さんにバレたら給料一部を差し引かれるだろうか。いやいや、学校の課題を遅くまでやっていてと誤魔化せば、今日ぐらい大目に見てくれるだろうなどと衝撃が大きすぎて内容がふっと飛んでいた冒頭台詞を忘れ、欠伸をふぁっと一つ噛み締める。と、その台詞を放ったと思われる子供がまだ高い太陽の光を遮り、僕達の前に腕を組み、鼻をフンッと鳴らしながら仁王立ちした。誰だ、お前。

「あらっ、二人とも起きたの? よく寝ていたものだから起こすのも可哀想かなって。皆はもうおやつ食べて、外で遊んでいるわ」

 その場にやってきた保母は場に漂う微妙な雰囲気を読み取ることなく、明るく彼を紹介してくれた。

「この子は花村陽介くん。悠くんと同じ年の新しいお友達なの。仲良くしてあげてね」

 鈍い思考で台詞をゆっくりと噛み砕く。反応は遅れたものの理解は出来た。つまり、僕を介してやっと他の子に馴染み始めた悠くんには荷が重い新たなるミッションが課せられたいう訳だ。現に花村くんから発せられ続けている威圧的な雰囲気に悠くんは既に呑みこまれ、僕の背中に隠れていた。袖を持つ指先がいじらしい。そんな悠くんを座った目で睨み続けているガキとの間に挟まれ、居た堪れない僕。こりゃ、前途多難だぞ。

「はなむらようすけ。よろしく」
「……………………なるかみゆう」
「はぁっ? 声が小さくて聞こえねぇよっ! 前に出て来いっ!」
「…………」

 お前はどの時代の番長だ。
 突っ込みたい精神を抑え、更に萎縮する悠くんを背中で庇いつつ、仕方なく場を取り繕う。

「あーっ、あの僕はしがないバイトの足立透です。足立さんでイイから」

 バイトの身分で先生って呼ばれるのも変だし、お兄ちゃんって言うのもむず痒く、かつての悠くんに言ったのと同じように言うと、太陽神の子供は猫のように毛を逆立てて、怒り狂った。

「お前の名前なんて聞いてねぇよっ、バーカッ! このショタコン野郎っ!!」

 最近のガキはいらぬ知識まで持ち合わせていやがる。ピクッと眉間の血管が動きかけたが僕は大人、僕は大人と暗示をかけて、ガキ相手に抜きかけた刃を矛に収めた。





 花村陽介。
 これがまたとんでもないガキだった。

「なに一人で本、読んでるんだよ」
「…………」
「そんな字ばかりの紙、見てもおもしろくないだろっ!」
「!!」

 とにかくツンツン、トゲトゲ、針山のような性格をしていた。
 直接的に手は出さないものの、他者が寄り付こうものならフーッと息を巻き、威嚇する。そんなんだから時折、威勢のいいガキとは衝突していたし、逆におとなしすぎる悠くんはこうやって日々、目の敵ことターゲットにされていた。本を取られそうになった悠くんが本を胸に抱え込み、涙目で僕の背中にシュンと素早く隠れる。花村くんは年長者相手だろうと怒りを収めない。

「何かあれば、そうやってすぐにソイツの後ろに隠れてっ! 気に喰わないんだよっ!」
「…………」
「卑怯者、弱虫っ! 誰かに守られていないと生きられない腰抜け野郎だなっ!」

 花村くんの両親は共々、デパート経営に携わっているため転勤が多く、永く同じ土地に留まることが少ないらしい。それに加えて、夜間遅くまでの仕事をしているとなれば当然、親子の触れあいも少なくなり、本音では寂しいのだろうと保母が口零していた。
 分かりやすく例えるなら、内に溜め閉じこもるのが悠くんなら、外に発散するのが花村くんと言ったところだろうか。だとしても、これは酷すぎやしないか。震える指先で背中を掴む悠くんに応えるよう迎え撃つ。

「あのさー、花村くん。言っていい言葉と悪い言葉があると思うよ」
「煩い煩い煩いっ! アンタに何が分かるっ!?」

 だが、首を振って、僕の言葉なんぞ聞こうとしない。

「まーそりゃ、僕は君のこと何も知らないし、どーでもいいよ。けど、悠くんに当たっていい理由にはならないでしょ?」
「――っ!!」

 なるべく刺激しない柔らかい言葉を選んだつもりだったが、運の悪い僕は核心と逆鱗、どちらにも触れてしまったようだ。ギリッと歯を食いしばる音と共に放たれたのは小さな拳。子供のソレと言えど、至近距離からだったので避けることも出来ず、まともに喰らってしまった。

「ってぇ……」

 口内に広がる鉄の味と、端から零れ落ちる生暖かい液体の感触。毎日、他のガキとのプロレスをこなしている流石の僕でも痛かったぞ、これは。ガキだからって容赦してやったが、これはお灸を据えてやらねばあるまい。そのツンツン、トゲトゲの頭に一発お見舞いしてやる。体罰、いやこれは躾けだねと言い聞かせて、制裁を加えようとしたのだが――。
 何と、これに過剰なまでに反応したのが背中でずっと怯え、隠れていた悠くんだった。ぐいっと僕の前に押し出てきたかと思うと、あの花村くんの前に立ちはだかったのである。

「あだちさんを苛めないでっ!!」
「ゆ、悠くん!?」

 僕がぎょっと驚く番だった。
 薄銀色の大きな瞳に涙を浮かばせて、震える身体で大きく手と足を広げて僕を守っている。数日前の悠くんからは想像もつかない勇姿に、動揺したのは僕だけじゃなかった。

「な、なんで、何でそんなヤツを守るんだよっ!」

 意表を衝かれたように花村くんも動揺していた。強い口調だったものの、困惑の色が滲み出ているのが分かる。悠くんはいつものように何も言わなかった。反論もしなかった。けれど、此処を退かないという強い意志が背中からひしひしと伝わってくる。僕、もしかして悠くんに守られているのかなっ? 情けないような、嬉しいような。ごっちゃ混ぜの感情に浸り、思わず惚けてしまう。
 強固な意志に、先に折れたのは花村くんだった。

「何で、何で……ソイツなの? オレだって遊びたいのに。いっつもショタの後ろに隠れてばかりでっ。オレには話しかけてもくれない、笑ってもくれない、一緒に寝てもくれない。何でっ何でっ!!」

 相変わらず口調は強がっていたが、いっつものトゲトゲ、イガイガだった花村くんの覇気がしゅんとなる。分かりやすくピンと跳ねていたオレンジ風味の茶髪が項垂れた。ん? てか、結構、とんでもないこと言ってないですか、花村くん? 騒ぎを聞きつけ、駆けつけた保母が惚ける僕の代わりに気持ちを代弁してくれた。

「それって……悠くんと仲良しになりたいってこと?」

 保母の言葉にいまいち状況を理解出来ていなかった悠くんがきょとんとし、大きな瞳で花村くんをジッと見つめる。途端、花村くんの足先から頭のてっぺんまでが一気に赤く染なり、挙動がしどろもどろになった。うわーっ、分かりやすいヤツ。

「そ、そ、んなこと」
「………………もう、意地悪しない?」

 そんなことあるもんかっ! と意地を張って逃げ出しそうだった花村くんに、悠くんが首を横にゆっくりと傾げながら問いかける。悠くんの所作はいちいち破壊力が込められている。花村くんの頭のてっぺんがぼんっと白い煙を吐きながら弾けたのを見て、僕と保母は同時にヤレヤレと溜息をついた。





「最近、不機嫌ねー。透くん」
「不機嫌なんかじゃありませんよ、拗ねてなんかいませんよ、これが本来、あるべき姿ですから」
「棒読みなのが余計にそう感じさせるわ」

 あの騒動以来、あれよあれよという間に悠くんと花村くんは仲良くなった。元々、溜めるか発散するかの違いだけで境遇が似ていたものだから、お互い切っ掛けさえ掴めれば、何処までも果てしなく通じるものがあったらしい。お昼の隣席は当たり前、悠くんが本を読んでいればその横を占拠し、お昼寝でも手から足から何もかも使ってガッチリホールド。事あるごとに花村くんが悠くんに抱きつき四六時中、べったりしている。
 花村くん、男同士でべったりするのは気持ち悪いんじゃなかったの? 嫉妬じみた言葉が出てきてしまうくらいに本当に二人は仲が良かった。今も一緒に薄く水の張られたプールの中できゃっきゃと遊んでいる。

 気がつけば梅雨を通り過ぎ、麦藁帽子を被って水遊びをする子供達の見張り番をする僕が居た。時折、水がちょろちょろと出るホースの口を細くして、ガキ共に当ててやると無邪気に喜ぶ。や、僕は腹いせにやっているに近いのだけど。究極に細くして当てれば痛いに違いない。殺傷能力を備えた水鉄砲を一番、当ててやりたいターゲットは対極に離れた位置で悠くんといちゃいちゃしていた。

「ゆーう。何で上着、着ているんだよ」
「日に当たると皮膚が焼けて痛くなるから」

 名は体を表すように花村くんの肌は元々薄茶色で少々日に当たったくらいではビクともしなそうだったが、反対に悠くんの肌は温室育ちの花のように白く透き通っていた。肌だけを見れば女の子と間違えそうだ。

「おまけにピンクのボールなんか持って。男らしくないなぁ」
「だ、だって、ピンクのしか残っていなかったんだもん」

 いや訂正、悠くんは黙っていれば女の子と間違われそうだ。最早、可愛いという単語しか出てこない。花村くんの言うとおり、僕はショタコンなのだろうか。けど、花村くんやマセた女の子はちっとも可愛いと思わない。悠くん限定ってこと?
 花村くんや他のガキが上半身裸なのに関わらず、一人白いパーカーを羽織る悠くんを見やる。下は皆と一緒の短い紺色の海水パンツ。幼児の(しかも男児の)チラリズムを見たって嬉しくもなんともないよと言いたいところだが、うなじと曝け出された素足を思わずガン見してしまう僕が居た。
 動く度に見えるちっちゃい形良いお尻とか、ピンクのボールを両手で持って肩をすくめて恥らう姿に色気を感じる。僕、重症だと思いつつもいっそのこと、このまま成長して、僕の理想とする清楚で物静かな従順な子になってくれないだろうか。うん、カッコよくて逞しい男になるより断然いいよ。おまけに料理上手だったら文句なしだ。

「そーやって情けないこと言っているといつまでたってもそうなっちゃうだろ。ほれっ!」
「うひやぁっ!」

 花村くんの手が悠くんの胸元に飛び込み、チャックを下ろそうとする。かっわいー声を上げつつも、必死に抵抗する悠くんだが花村くん相手に本気になれないようで、なかなかうまくいかない。

「やめてやめてやめてよ、ようすけぇっ!」
「恥ずかしがるなって。女子みたいに胸がある訳じゃあるまいしっ!」
「ひゃいんっ!!」

 花村くんの水に濡れた冷たい手が下から入りこみ、胸をガシッと掴む。その、アレだ。いかがわしい行為を目の当たりにしているようだ。認めたくは無いが、イラッとする。
 畜生、同い年だからって何でも許されると思うなよ。僕だって花村くんが来る前は誰よりも悠くんと一緒に居たんだぞ。暇さえあればすっごく柔らかい髪の毛をこねくりまわしたり、マシュマロみたいに柔らかいほっぺたをふにふにしたり、気持ち良さそうに甘えてくる悠くんにあんなことやこんなことして存分に可愛がっていたんだからなっ。少しぐらい仲良くなったからってイイ気になるなよ、花村ぁ。

 通りががった保母が僕を見て、ヒッと悲鳴を上げたことに気づかないくらいには黒い不穏な空気を全身から醸し出し、モヤモヤとしていたようだ。

「あだちさん、助けてっ!」

 不埒な花村くんの手を振り解き、必死に水の中を素早く駆け抜けてきた涙目の悠くんが僕の腕の中に飛び込んできた。未だに最後の最後で僕を頼るところだけは最初の頃のようだ。どうだ、見たか、花村ぁ! にへらっと表情が自然と緩む。けど。あれっ、無自覚に僕、色々と末期だったりする? 疑問を上げる必要も無く、花村くんの攻め立てるような視線が更にその想いを小波たたせた。

「まーた、あだちさんかよっ! 本当、邪魔だなアンタっ!」
「だって僕は雇われバイトの身だもん。居て当然だね」
「他の奴等の相手してりゃいいじゃねーか」

 ヘッとあしらうが、簡単に折れるような花村くんではない。当初は悠くんに構って欲しくて、分かりづらい絡み方をしていたが大分、柔軟になった。悠くんのお陰で毬栗の先に丸いポンポンがつくまでに改善したと言えよう。好きな子ほどってヤツだったに違いない。
 後々、その性格は苦労するだろうから早めに直した方がいいよと心の内だけでお節介をしておく。改善したと言えど、僕に対する態度はあからさまに悪いままだった。お気に入りの悠くんが一番、懐いているのが僕であることが気に喰わないのだろう。片眉を吊り上げ、むぅっと頬を膨らましながら地団駄を踏んだ。

「ゆうを離せよ、離せよっ!」
「やなことった。てか、僕が離さないんじゃないもん。悠くんが僕を離さないのー」
「畜生っ! ムッツリスケベの癖にっ!」
「……ムッツリスケベ?」

 ピクンと反応したのは腕の中で擦り寄りしていた悠くんだった。

「そーだよ、コイツ、嫌らしい目でゆうのこと見てたっ!!」

 花村くんは好機を見逃さず、ここぞとばかりに追い討ちをかける。
 うげっ、ヤバい。僕に懐いていると言えど、悠くんは人の言うことを簡単に信じてしまう純粋そのものの子なのだ。案の定、僕は悠くんから向けられたくもない疑いの眼差しを向けれてしまう。

「あだちさん、本当なの?」

 しかもこういう時に限って超冷静な悠くんの冷ややかな瞳が僕を射抜く。うわっ、これは身に堪える。内側にあった疚しい気持ちが見抜かれたようで、思わず目を逸らしてしまった上に何も言えなかった。無言は肯定と解釈されたらしい。

「そう、なんだ……」

 あという間もなく、するりと腕の中から温もりが飛び出す。
 すっかり拗ねてしまった悠くんは数日間、僕と一言も口を聞いてくれなかった。





「お寿司が食べたい」

 悠くんの機嫌が凪いだ海並に穏やかになった頃、花村くんがそんなことを言い出した。事の発端は夕飯に何を食べたいかという所から始まった話。いつもは人数が居るので給食が提供されるのだが、今日は花村くんと悠くんの二人しか居ないということで提携先から出前を取ろうという話になったのだ。

「贅沢な舌の持ち主だねぇ……」
「都内の託児所じゃ、それぐらい当たり前だ」
「そうなの?」

 何でも都内中の都内の託児所は洒落た店と契約していて時折、そのような食事が出たのだと花村くんは自分のことのように鼻高々に話した。ま、一応、ここも都内なんだけどね。一日中、同じところを飽きもせずにぐるぐると回っている緑電車の内側と外側の違いとでも言っておこう。

「寿司ねぇ……個人的には賛成したいけど、予算ってものが」
「大人の事情はどーでもいいんだよ。オレ、マグロとサーモン、いか、たこ、かっぱ巻き予約な」
「相変わらず人の話を数ミリも聞かないガキだな。悠くんは何が食べたい? お寿司以外で、高くないのね」
「茹で海老がいい。あとイクラ」
「そうだったね、キミも意外としたたかで頑固なヤツだったね」

 結局、二人の意思誘導は失敗し、僕が経理担当の事務員を説得して、実現させる羽目となった。だが、予算はきっちり決められて、はみ出した分は僕の給料から天引きするとのこと。畜生、お前ら、出世払いしろよっ!

「えぇと、定番のものと……あとウニ下さい」
「あんな黄土色のうねうねした気持ち悪い物体なんていらねぇよっ!」
「うるさいっ、僕が食べるのっ! あ、気にしないで……え、ネタぎれ? 嘘でしょ〜っ」
「おれの茹で海老、少しあげるから」

 喜びに足元をくるくると回る一人に突っ込まれ、一人に慰められつつも注文を終える。あぁ、僕のウニ。終話ボタンを押し終えた受話器片手にガクンと項垂れていると、悠くんが「キャベツ以外に好きなもの、あったんだ」と言いつつもヨシヨシしてくれた。
 お目当てのお寿司が届いてからは主に花村くんと僕とで争奪戦の始まりだった。

「オレのマグロ〜っ!」
「煩いっ、ウニが無いんだっ! マグロは一番、数があるだろうがっ!!」
「土下座して『花村さま、卑しい僕にマグロを一つ、恵んでくださいませ』って言ったら考えてやる」
「だ・れ・が・やるかっつーのっ!」

 当初の宣言通り、茹で海老とイクラをちゃっかり死守し、正座をしながら一人、もきゅもきゅと食べる悠くんの目の前で、一つのマグロを取り合う幼子と高校生の図。同席した保母にしてみればシュールな光景だったに違いない。
 背後にRPGの戦闘曲――しかもボス戦――がかかりかねない怒涛の夕飯を終え、花村くんはお腹を出しながらコテンと寝てしまった。適度な運動に、適度に満たされた腹。寝るには最適な環境だ。いつもこうやって静かに寝てりゃいいのに。
 漸く静かになった空間で保母が淹れてくれた珈琲を一口飲む。寿司の後に珈琲ってのもアンバランスだが、怒涛の昼間には取れないブレイクタイムのようなものだと思えばおつなものだ。

「あだちさん」

 コップを傾けホットミルクを飲んでいた悠くんが、コクンと喉を鳴らした後、不意に切り出す。

「なに?」
「あだちさんはずっと此処に居てくれる?」

 急に神妙な顔つきになったかと思えば、とても難しい質問が飛び出したものだ。適当にはぐらかそうか迷ったが、悠くんのまっすぐな瞳を見て、誤魔化すことは止めておいた。

「いや、いつかは居なくなるよ。悠くんが成長して、ここを卒園するのと同じように」
「卒園までは居てくれる?」
「う〜ん、そもそもバイトの動機が不純だし……再来年は大学受験が控えているから難しいかもしれないね。けど、今すぐには辞めないよ」

 続けて一年、長くて二年だと踏んでいた。さすがに大学受験はバイト片手には困難だろう。少しずつ哀しそうに歪んでいった悠くんの表情が心に突き刺さり、少しだけ希望を持たせるようなことを言ったら、向かい側に座っていた悠くんがちょこちょことこちらに歩いてきて、ふわっと軽い仕草で僕の頬に触れた。

「ふえっ?」
「ヨースケが言ってた。キスはシンアイの証だって」

 ちょこんと触れたのは指先ではなく、唇だったことに気づいた時にはもう悠くんは離れていた。驚き半分、嫉妬半分。あのガキ、そう言い含めて悠くんに影でちゅっちゅしていたな。何も知らずくかーっと眠るガキを一睨みしたかったが、数々の花を飛ばしながら幸せそうに頬を赤く染めて笑う悠くんの姿を見て、現金なものでどうでも良くなった。

「おれ、足立さんのこと好き。離れても好き、一緒に居なくてもずっと好き」

 好きだなんて言葉、この世に生まれてこの方、親にも、女の子にも、年配のご老人にも言われたことなんて無い。例え、言われても、たかが言葉――嬉しくも何ともないんだって、ずっと強がっていたけれど。

「あだちさん、どうしたの? おかおが真っ赤だよ?」
「……どーでもいいでしょ。てか、その言葉、いつか言ったことを後悔することになるよ」
「ならないよ?」

 迷いなく断言する悠くん。よく言うよっ!

「あ、そう。なら、もし大きくなっても覚えていて、同じ気持ちで居てくれたなら僕のお嫁さんにしてあげる」
「本当!? 約束だよ、約束っ!」
「お嫁さんは女の子しかなれないんだよって突っ込んでくれること、ちょっと期待していたんだけど……ま、いいや」

 呆れを通り越し、笑ってしまう。
 どうせ、今だけなのだと存分に戯れを楽しむとしよう。

「あとさ、抱き締めていい?」

 照れ隠しに言い訳をズラズラとのたまいながらも、きっちりと。
 小さく手を広げながら最後の言葉を言えば、返事よりも先に暖かな温もりが胸の中に飛び込んできた。






「まっさか、ないよ、ない。いくら他より小さいと言えど、都会は人口過密地域なんだよ。そりゃ、すれ違う程度はあっただろうけど気づきゃしないって」
「……そうなのでしょうか」

 堂島さん特製の濃い珈琲を涼しげな表情で飲み干しながら首を傾げる悠くんの姿にほっと胸を撫で下ろす。どうやら完全には思い出しきれていないらしい。
 横を見ると洗面所によく備え付けられているような鏡があり、正しく僕の顔を映し出してくれた。十年前と差異のない顔。良く言えば童顔、悪く言えば幼稚なまま。
 一方はと言うと、あまり望んでいなかった方向に育ってしまっていた。あどけなさが消え去り、二人とも男っぽく育っちゃって。

「そーいえば、悠くんの肌は白いねぇ。日に焼けないの?」
「昔から肌が弱くて、日焼け止めを何重にも塗っているんです。……あまり見ないで下さい、恥ずかしいですから」

 ワイシャツから覗く項をちらりと見ただけで、さっと大きな手で隠されてしまう。めずらしく赤く色づいた表情に、意外とあの時も男の子らしくないからジロジロ見られたのだと勘違いして、拗ねてただけなのかもしれないと十年越しに合点する。

「花村くん、起きないね」
「症状は治まったみたいですけど……バイト疲れかも」
「さて、と。たるいけど、僕もそろそろ仕事に戻ろうかな」

 空のカップ手持ち無沙汰に、背中をンッと伸ばす。会話も詰まり出したしそろそろ潮時かと席を立ち上がった。これ以上、余計な会話を重ねて墓穴を掘るのも避けたかった。
 例え、一時期の感情だったとしても、キミのことを猫可愛がりしていた僕のことなんぞ思い出して欲しくなかった。これから起こるであろうことにも差支えがあるだろうし。目の端に映った小さなテレビを無理矢理、視界の外に追いやる。

 この部屋を自由に使っていていい旨と帰る時には一声かけてねとだけ残し、部屋を立ち去ろうとする。シャクシャクと鳴く蝉の声の合間に、幼い頃を彷彿させる悠くんの呟きが聞こえてしまったのはきっと神様の気紛れってヤツなんだろう。

「……覚えていたらお嫁さんにしてくれるって約束したのに」

 不覚にも顔がカッと熱くなったような気がしたが、邪魔するように「ふがっ」と花村くんの大きなイビキが響いた。危ない、危ない。邪魔者が居なければ、僕はすべてを吐露して、観念していたかもしれない。








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