穏やかな水面を震わせた涼やかなる声と引き換えに魔女から貰った薬で手にいれた足。産まれながらに備えもたないソレは、歩みを踏みしめる度に素足で茨を踏みしめる痛みを人魚姫に齎しました。

 けれど。

 それでも人魚姫は口元に仄かな笑みを浮かべて、愛する人から差し出された手を取り、踊りました。一歩、一歩血が滲むような痛みを感じながらも心を占める想いを伝えるように必死に踊りました。決して伝わらない想いだと知っていても、己がいずれ海の藻屑になると分かっていても踊りました。


 誰よりも王子様のことが大好きだったから。




―― マーメイド・クライ ――





 用途を考えれば、ぷっくりと膨らんだただのなだらかな曲線で十分な気がしたが「どうぞお乗りください」とばかりに真ん中に向かってぺこんと窪んだ天辺。中心に向かって足を滑らせるとリクライニングベッドのようにすっぽりと身体が収まった。屋上の更なる上――貯水タンクの上。馬鹿と煙は高い所が好きという格言が頭を過ぎる。

 先の先入観もあり、こんな所に人が居ると気づく者は居ない。屋上の端に設置されているものの転落防止を考慮し、端からは余裕を見て設置されているためバランスを崩して落下しても校庭と命を懸けたキスをすることはない。だが、怪我をしないとはノット・イコール。身長に中ぐらいのりんご三個分を足した高さのタンクから落下すれば怪我は免れまい。自殺願望を胸に抱き、実行しようとして失敗した阿呆モノのレッテルをもれなく頂けることだろう。

 不安定の中に見出した安定下で、眼下に広がる校庭を見つめる。パラパラと不規則に下校していく生徒達の姿が伺えた。放課後、バイトも無く暇を持て余した時、もっぱら居るのが此処となった。無意識に下校する生徒達の中から銀灰色を探しそうになり、それよりも深い色合いが広がる空を仰ぐ。

 あの色を見つけてどうすると言うのだ。もう隣には居られない。自慢の相棒に可愛い彼女が出来たのは先日のこと。昼休みも放課後も彼の隣は予約済み。自分の気持ちのように揺らぐ灰色の虚空をぼんやりと見つめる。

 相棒に彼女が出来たこと自体、歓迎すべきことだった。
 相棒のことは好きだ。同時に想いを伝えることはないと理解していた。ジュネス店長の御曹司というだけで冷遇を受ける自身の境遇に巻き込みたくなかったし、何より性別の壁は越えられない。いや、そんなの表向きの言い訳に過ぎない。情けない話で想いを知られ、嫌悪されるのが怖かった。他人を見る軽蔑の眼差しを向けられることを想像しただけで、全身を液体窒素に突っ込み瞬間冷凍したように身体は動かなくなった。

 だからこそ、心構えは出来ていたし彼女が出来たと相棒から知らされた時、少しも引きつることなく表情を柔和に崩して「おめでとう!」と言えていた。自身過剰なんかじゃない。だって本当に心の底から嬉しかった。
 長めの前髪に隠された意思の強い瞳と際立たせるパーツを兼ね備え、言葉数は少ないもののここぞという時の決断力を備えもつ二枚目。合いの手を読みきれず場違いな台詞をかます天然ちゃんな部分もあるが、誰にでも好かれる自慢の相棒。その隣に立つことを許された彼女は沖奈市でモデルにスカウトされたと評される美人。相応しいことこの上ない。誰からも祝福される図。それを近くで見守れる立場に在る。それだけで十分だった――ハズなのに。

「どうして……こじれちゃうんだろうなぁ」

 だからオレは運の悪いトラブルメーカーと後ろ指を指されるのかもしれない。






 相棒から彼女が出来た宣言を通告されたその日、オレは一人で帰路についた。当然だ。彼女が出来たのに親友と帰る馬鹿は居まい。だが即効で何故、先に帰ってしまったのだと咎められたのだ、アイツ自身に。

『なんで?』
「なんでってお前、ふつー彼女が出来たら一緒に帰るもんだろ?」
『そうなのか?』

 受話口から聞こえてきた台詞に、思わずスマートフォンを手から滑り落としてしまいそうになった。百戦錬磨の男は流石言うことが違う――とか、そういうレベルじゃない。まさに馬鹿者がこんなに近くに居たとは。

「そうなのかっておまっ、好きで付き合ってるのに一緒に帰らないとかおかしいだろっ! わざわざ講釈せんでもお前なら分かるだろ? 馬に蹴られる前にお邪魔虫はさっさと退散するに限るってーの」
『陽介はお邪魔虫なんかじゃない』
「っ!」

 性質の悪い冗談かと笑い飛ばしてやろうとしたが、鋭い刃を伴った二言目に言葉がぐっと詰まり、肩が震えた。まるで何かとつけてバイトのシフトに難癖をつけてきた先輩方を「黙れ」の一言で一蹴した時のよう。聴き方によっては怒っているとも取れる口調に攻めたてられた気がして胸の内がずっしりと重くなる。普段はガッカリなくせに偶には空気を読むじゃないか、気を遣って有難うと言われるならまだしも。そんなにオレはトンチンカンなことをしただろうか?

「ごめん……強く言い過ぎた」

 電話と現実に鳴り響く二重の声。
 鮫川のほとり、後ろを振り返れば息を切らした相棒の姿があった。相棒兼親友相手に何をそんなに必死になっているのだ。

「彼女が出来たからって、今まで一緒に帰っていた人間を蔑ろにするような軽薄な人間に俺は見えるか?」
「や、そういうことじゃなくて」
「陽介はフェミニストなんだな」

 そうでもないだろと言う言葉は、片手で携帯をパチンと閉じながらこちらに歩み寄せた相棒の姿と詰められた距離に消える。

「陽介は俺にとって初めて出来た親友なんだ。彼女が居るとか居ないとかで関係性を変えたくない」
「関係まで変えるなんて一言も言ってないだろ」
「なら、今まで通りにしてよ。気を遣う必要なんてない」
「……」
「彼女には俺から話しておく」

 伺うような視線に言葉無くとも気づいたのか、逆にいらぬ気遣いを見せられた。
 ここまでされて一緒に帰らないのも不自然なので、肩が触れるか触れないか微妙な間を空けて隣に立ち、どちらともなく歩き出す。亜麻色の毛先が頬をくすぐる。初夏の風がくすぐったい。

 なぁ、彼女って何よりも優先すべき存在じゃねぇの?
 一分一秒でも長く、一緒に過ごしたい程、好きだったから告白したんじゃねぇの?

 ぎこちないながらも、いつもと変わらない世間話に花を咲かせ始めつつ、心の奥底で叫び続ける。声を失った訳でもないのに喉元を両手で掴んで、深海の奥底からごぼりごぼりと空気の泡を撒き散らしながら泣き叫ぶ。

 勘違いしちまうじゃねぇか。
 相棒兼親友のオレは、彼女と同等もしくはそれ以上に大切にされているんだって。

 言葉は大量の水に飲み込まれて水面には気泡しか上がらないように、空しさだけが募った。





 信じられないことに相棒は本当に『彼女が出来た』という事実以外、何も変わらなかった。オレと共に過ごす時間がこれといって減らなかったし、一緒に帰ることは勿論、相棒のお手製弁当つきの昼休みに土曜休日も殆ど一緒に過ごした。これまではこれと言って意識していなかったが本当にオレ達、一緒に居る時間が長いんだな、ってそういうことじゃなくて。

「お前、一体、いつ彼女と一緒に居るんだよ」

 ぱくりと箸を運ぶと、甘じょっぱい塩梅が口内に広がった。
 あぁ、コレコレ相棒お得意の豚のしょうが焼き。前日からタレに漬け込んであると言っていたっけ。お袋が作ると大味になってしまうのに、どうしてこいつが作るといきすぎず足りなさすぎない、ギリギリ塩加減の丁度良い味付けになるのだ。
 舌鼓をうちつつ、これじゃあいけないと理性に太刀打ちするが、頭から花が飛び出しかねない高揚感としっかり掴まれている胃袋に見事に台詞は上滑りした。

「陽介、口元にご飯粒がついている」
「あんがと――って、だからこーいうことは彼女とやれよっ!」
「部活に充てていた時間を割いているから問題ない」

 またその話かとばかりに口の端を微かに上げた笑み――微細な変化だが、相棒にとっては相当嬉しい時に浮かべる類の笑顔だ――が消え、表情がムスッと露骨に歪んだ。こちらに伸びた長い指先が米粒を取り、戻される過程でそのまま口の中に消えていった瞬間は見ない振りをした。

 相棒は運動部と文化部を掛け持ちしているが、どちらも幽霊部員に近い。必要な時に必要な分だけ行っていると以前、零していた。元々、割り当てられている時間が少ないものを割いたところで微々たるものだろうに。
 相棒がいつ気紛れを起こし――いや、親友よりも彼女に比重を置くべきだと正気に戻るという表現が正しいのかもしれない――食べられなくなるとも知れない貴重なおかずに有難く手を伸ばしつつも、何度言ったとも知れない言葉で舌を濡らす。

「今まで通りって言っていたけど、さ。オレと過ごす時間も彼女に割いてやれよ」

 フランクな口調で言ったものの、やっぱり返事が返ってくることはなかった。
 気まずくて蓋代わりに押し込んだおにぎりに入っていた梅干しが存外、酸っぱかった。





 それから数日後、手紙による名指しで呼び出しを受け取った時「あぁ、やっぱりな」と予感が的中した。

 ずっとこのままであれる筈は無いと分かっていた。
 いずれにせよ、来年の三月には強制的に転機が訪れる。だけれども、だからこそ、余計に今まであった居心地の良い空間を失うことは躊躇われた。彼女が出来たことは喜ばしい。けど、相棒に対する『好き』という気持ちがこんな短い時間で失われる訳でもない。
 人間とは弱い生き物で楽な方へ、楽な方へと水のように流れ落ちていってしまう。ダムのような障害物でもない限り、水の流れは止まらない。相棒は障壁を作る気がさらさら無いようだったし、理由はどうあれ取り除く方向に見えた。オレは作る気になれば作れたかもしれないが彼女が出来ても尚『好き』という疚しい気持ちが疼いてしまいどうしても出来なかった。

 けれど、たった二人の人間がそうしたところで、意図しない他人が介入した時点で世界はボロボロと飛沫の泡のようにあっけなく崩れる。シパシパと音を立てて泡が弾ける炭酸の残りを一気に煽り、誰に言うでもなくカバンを肩にかけ「じゃあな」と片手を挙げて『いつもの』ように帰ろうとしたところだった。
 軽く挙げた手がパシンと掴まれる。前の席に座る相棒だった。

「陽介」
「ん? どーったの、相棒」
「今日も……バイト、なのか?」
「あぁ。だから急がないと」

 悟られないように「良い様にオヤジにこき使われてよー」と笑いながら、掴まれた手首を振り払おうとするが一向に離されない。一見では普段通り。だが、苛立っているのが手に取るように分かった。

「最近、毎日だよな。いつまで忙しいんだ?」
「しがないいちバイトの身分でしかないオレに分かる訳ないだろ?」
「根の詰め過ぎはよくない。身体を壊す」

 のらりくらりと交わすが執拗に食いついてくる。
 思惑がばれてしまうんじゃないかと高鳴る鼓動が、手を通して聞こえないことを祈る。まさか、お前の彼女に頼まれてわざと一緒に帰らないようにしている、なんて口が避けても言えたものじゃない。

『二人の仲が良いことは知っているわ。けど――』

 こんなことをお願い出来るの花村くんだけだからと言われてしまえば二つ返事で受けることしか出来まい。つか、親友に構ってばかりの彼氏だってのに、見限られなかっただけマシだったんじゃないだろうか。

「まさかオレと帰れないからって拗ねてんの?」

 お前には可愛い彼女が居るじゃんと遠まわしに告げれば、相棒の表情がピシリと固まった――ような気がした。

「……相棒?」
「大事な話がある。三十分……十五分でいいから」

 返事をしない内に掴まれた手首を引き摺られる。それを見ていた天城と里中は「相変わらず仲むつまじいねぇ」と暢気に零していたがそんなんじゃない。縋るような視線に拒絶は出来ず、ズルズルと屋上まで連れて来られてしまった。
 ドアを開けた途端、ひやっとした空気が肌に伝わり、ピリッと緊張が走る。風はないが、どんよりと厚い雲が空に鎮座しており日差しが届かないのだ。誰かさんの気持ちみたいにぐずぐずとはっきりしない天気が続いていた。
 心の隙を突くように、迷いの無い切っ先で切り込まれた。

「鮭川で陽介に『特別』って言って貰えて嬉しかった。相棒と呼んでもらえて、背中を預けられる親友だって――浮かれていたのは俺だけ? 俺、ウザい?」

 テレビの中で業物は慣れないと言いつつも、悠々と日本刀を操っているだけのことはある。研ぎ澄まされた精神は華麗な剣舞を生み出す。素人にしてはと問うた所、珍しく恥ずかしそうに頬を少しだけ赤らめて幼少期に剣道を習っていたのだと教えてくれた。

「そんなことないっ!」
「なら、なんで避ける?」

 人と話すのが不得意で、余計なことを考えることなく精神統一できる剣道に打ち込んだそうだ。だから、今みたいに人に囲まれた生活をするのが夢で、お前のような存在――親友――が出来て嬉しいって言ってくれた。

 バイトがただの口実であることは見抜かれている。
 切れ長の瞳が哀しげに細められて良心が痛む。相棒は純粋に親友としてオレのことを気に掛けてくれているのに、自分がそうじゃないことが酷く醜い。切り立った崖から深海の奥底へと突き落とされ、引きずりこまれるようだった。

「だって、さ……普通じゃないじゃん」

 誤魔化していれば大丈夫だと信じて逃げていたけど、もう潮時か。個性派の面々をつつがなく束ねるリーダーからいつまでも逃げ続けるのは無理かと観念する。

「普通は親友より彼女を大事にして、時間を割いて、一緒に居てやるもんなの」

 鼻っ面に指先を突きつけて、フェミニストとか関係なく一般常識だからなとダメ押しで付け加える。

 大好きな詩を詠える声と引き換えに、魔女から貰った薬で欲しかった足を手に入れて、希望と光溢れる地上へと飛び立った筈だったのに。一緒になりたかった人は手の届かない存在だと知り、叶わぬ恋慕に身を焦がしながら故郷の海へ――今は自身の命を奪う手段でしかない海へと身を投じた人魚姫も同じように辛かったんだろうか。

「普通……って何なんだ?」

 なのにどうしてお前は簡単にそれを壊して、こちら側に来ようとする。得体の知れないシャドウ相手に怯むことの無い、惑いの無い双眸がこちらを射抜く。

「陽介と今まで通りに居られないなら俺、普通じゃなくていいよ」

 自分を助けた命の恩人を間違えて、違う相手と幸せになろうとしたくせに。柔らかい笑顔を浮かべて、声が出ない人魚姫に手を差し出した王子様の姿が重なる。残酷以外の何者でもなかった。

「じゃあ何で告白なんかしたんだよ」

 お前があの子に告白して付き合い始めなければ、何も変わらなかったのに。
 自覚なくポロリと零れていた女々しい言葉に、涙腺までが誘発される。涙が頬を流れ落ちるその前に、アイツの静止の言葉も聞かずに走り出していた。






 で、不安定な場所でふて寝する今に至る。
 同じ教室、同じ列の前後の席順は間柄がどう変化しようと席替えをしない限り離れられない。柏木に「オレはモーホーで、前の席のヤツに叶わぬ想いをぶつけてしまい撃沈したので席を変えてください」とは言えないので――言ったら言ったで「あらぁ、色男に惚れた上に惨敗だなんてお気の毒。席? いいわよぉ、それぐらい。それよりもセンセイがなぐさめてあげましょうかぁ? うふっ」などと両手でぐぃっと谷間を強調されつつ迫られそうだ――休みがつく空き時間と放課後は、相棒の目に留まらぬ内に回避するのが当たり前となっていた。リアル・スクカジャかけてみました。補助魔法なめんなよ!

 はぁ。
 溜息しか零れない。もう自己嫌悪でいっぱいだ。
 視界は今にも雨粒が零れ落ちそうな黒に近い灰色で塗り潰されている。空模様のように荒れた海に身を投じて、心だけが凍結してしまえばいいのに。

 どうして近くに居られるようになったのに想いを伝えないのだろう。声が出ないとか言い訳じゃないか。ジェスチャーでも、筆談でも好きなら好きって言えばいい。たった二言なのに何で言えないのだろう。人魚姫の絵本片手に、幼い頃に理解できなかった恋心が今なら理解できる。
 そうだよな。想いを伝えられる立場に居たところで受け取ってもらえる保障なんて無い。想いを伝えて絶望するくらいなら。愛する人を手にかけるくらいなら。たった一抹の純真な心を残して死んでいくことを選択した。哀しい程に強い人だったのだ、人魚姫は。

 童話の中のメルヘンチックな世界ではなく辛辣な現代社会を生きる身としては、決して投じることのできない海に想いを馳せるのを止めるように、瞼の上に腕を乗せ閉じる。バイトのシフトが無かったことがバレてしまった今、唯一出来ることは独りになれるこの空間でジッと息を押し殺して、想いを少しずつ風化させることだけ。閉じた瞳から零れ落ちる涙はたぶん、その欠片なんだ。

 だが、オレ自慢の王子様は架空の海の中で少しずつ身を削り、溺れ死ぬことすら赦してくれなかった。

「陽介」

 耳に馴染みすぎた自分を呼ぶ声に、ひゅっと息が止まった。

「こんな所に居たのか。やっと見つけた」

 言いながら登ってくる気配にガバッと起き上がり裾で涙を拭ったがもう遅かった。タンクを支えるパイプを掴んで容易く近くまで来た銀灰色――相棒が、オレを見て屈託の無い笑顔を浮かべ、くらりと眩暈を感じる。

「風邪をひく。中に入ろう?」
「……嫌だ」

 みっともない姿を見られたくなくて顔を背ける。
 振られてメソメソ泣いている親友よりも彼女を優先させろよ馬鹿ヤロォと罵った醜い心の声は背中越しに届いたらしく、嘆息の音色と共に信じられない言葉が耳を震わせた。

「彼女とは別れた」
「――っ!!」
「性格が合わなかったんだ。実際に付き合ってみて分かった」

 陽介のせいじゃない。
 言われ、向けた背中に温かな大きな手の平が触れる感触が伝わる。

「これでもへこんでる。傷心に打ちひしがれる俺を慰めてくれない?」
「……親友だもんな」
「そう、親友」

 確かめるように問いかけた言葉。
 想定しながらも、本人から改められて突きつけられた現実の儚さとコツンとあてられた額の熱が相反しながら心を蝕む。けど、惚れた弱みなのだろうか。嬉しいという気持ちの方が勝った。

 先に貯水タンクから降りた相棒が危ないからと手を差し出す。日本刀を操る指先は細くて綺麗だったが、よく見ると小さな刀傷があちこちにあった。だからそういうことは女の子にやってやれよと苦笑いしながら、そうとはない機会に差し出された手にそっと手を重ねる。見た目よりも無骨の指先をぎゅっと握り締める。途端、相棒から返って来た笑顔に、オレは漸く悟った。



 ダンスを踊る紳士淑女を物珍しそうに見ていた人魚姫に気づき、手を差し出した王子様。戸惑いながらも王子の手を取り、歩くたびに痛む足で必死にステップを踏む人魚姫。

 きっとそうやってオレは心の痛みを隠し、声を失った人魚姫のように踊り続けるのだろう。いつか訪れる別れに怯えながらも、この時を無駄にしないために。



 やがて、誰よりも愛していると叫びながら、深海に埋もれる未来を夢見ながら。



***



 緩やかに吹いた風に流れたストレートの髪を、自然な仕草で耳にかきあげる当校の同級生の姿。唇に控えめに引かれたピンクのルージュが、清楚さの中に息づく可愛らしさをさり気なくアピールしており、周囲に居た男女問わないこれまた当校の生徒達がほぅっと感嘆の息をつくのが聞こえた。

「あーいう子がお前の彼女だったらな」

 羨望の眼差しを一身に受ける、最近モデルにスカウトされたと話題の女子生徒の姿を見つめながらポツリ。

「……だったら?」

 脇にカバンを挟み込み、横を歩いていた人物の語尾を繰り返してやるとニカッと笑う鳶色の瞳。

「オレ自慢の相棒が、更に自慢の相棒になる」

 今の季節にはめずらしく、カラリと晴れ上がった蒼穹の空の下で太陽の笑顔を浮かべる相棒兼親友に会釈を返しながらも思う。

 陽介が思うほど、俺は綺麗で誠実な人間じゃない。






 最近、陽介の付き合いが悪い。
 昼休みや放課後、気がつけば姿を消していた。どうしたんだと問いかければ何でもないと定型句の返事をヘラッとした笑み――何かを隠している類の薄っぺらい笑みだ――と共に返し、挙句の果てには授業と授業の合間の十分間休憩ですら姿を見失う羽目となった。誰よりもその姿を見て構い倒したいこちらとしては、たまったものじゃない。

 陽介と一緒に食べようと作ってきた弁当を手に途方に暮れる。何処に行ったのだ。今日はお前の好きなハンバーグなんだぞ。前に「和風の味付け加減がサイコー!」と絶賛していたから、大根おろしを使った和ソースまで作ったのに。視線を落とすとポツンと取り残された弁当。見れる筈だった笑顔が重なり、いいやまだ諦めるには早いと一歩踏み出す。
 隣のクラス、購買、体育館、屋上――めぼしいところを見回るが見当たらない。途中、数日前に告白して彼女となった女子生徒に声をかけられたが、当たり障りの無い言葉でかわした。彼女だって、陽介に「スゲーよ、相棒!」と喜んで貰いたかった故に付き合って欲しいと言ったまでのこと。天城同様、難攻不落と噂されたイケメン転校生が初めて女の子に告白したんだって巷では噂になっていたが、蓋を開けば真実なんてそんなものだ。

 陽介にとって自慢の相棒になりたかった。
 理想を演じることで、誰よりも近い友達に、親友でありたかった。高望みするならそれ以上――それこそ、距離なく触れ合える恋人の関係になりたかったが、陽介は生粋のガチホモ嫌い。完二のダンジョンで全身にサァッと鳥肌をたてて、震えていた程。拒否されるくらいなら想いを伝える気は無い。
 言っておくが、俺とてガチホモはごめんだ。陽介だから好きなだけであって他の男はまっぴらごめん。と、言ったところで陽介に通じる訳でもなかろう。なら、次に一番近い場所を陣取り、一生離さない方向性に転じたまでだ。

 それなのに、彼女が出来た途端コレでは本末転倒ではないか。
 疾風魔法を得意とする陽介は身軽だ。テレビの中でもまるで靴に羽が生えたかの如くの跳躍力でフィールドを駆け巡り、敵を次々となぎ倒していく。その素早さ故に庇うべき場面で守りきれず、代わりに傷つく姿を見て何度心を悼めたことか。
 陽介は優しいから俺や仲間が傷つくくらいならと自身を矢面に出す。身体的なものだけでなく、感情的な部分でもそうだ。人にはウザがられるくらいお節介なのに、自分の本心は決して曝け出さない。独りで抱え込んで、独りで解決しようとし、独りで物憂げな表情を浮かべている。

 ガッカリジュネスなんて誰がつけたんだ。
 鮫川のほとりで人知れず膝を抱えて、仄かに想いを寄せていた今は亡き先輩のことを考えている陽介の横顔を見たことがあるのか。いや、見せたくなんてない。あの横顔は自分だけが知っていればいい。先輩のことを未だに引き摺っているなんて情けないよなと陽介は卑下していたけど、そんなところすら丸ごと愛しているんだと言いたかった。愛しているから、全てを自分にだけ見せて欲しいと胸を貸す振りをして抱き締めた。思ったよりも華奢な身体はそれでも温かく、人の温もりを知らない冷えた心にじんわりと熱を齎した。

 残念なことに昼休みは敢え無く時間切れとなり席に戻る。両手に綺麗に残ったままの弁当袋に「食べなかったの?」と隣の里中が話しかけてきたが、ああとかううとか空返事しか返せない。せめてもと授業開始ベルと共に滑り込みで戻った存在に振り返ろうとしたが、先生が教壇に立つ方が早かった。もどかしい。
 授業終了後、今度こそ逃がしてたまるかと机の片付けもそこそこに陽介の手首を掴まえた。心なしか細くなった気がする。栄養バランスに気を遣った俺の弁当を食べないからだ。苛立ちを隠しながら、屋上へと引っ張り出せば陽介の話がしたいのに彼女の話ばかり引き合いに出されて泣きそうになった。

「だって、さ……普通じゃないじゃん」

 不毛な恋をしている時点で、普通じゃないのは知っている。
 けど、だからって陽介と一緒に居られなくなるのは嫌だ。心の叫びが出かけた往来は陽介のくしゃりと潰れた、苦しそうで泣きそうな表情で終わった。
 嫌われる。そんなの絶対に嫌だ。身体の芯が一気に凍りつく。逃げに拍車がかかって、本格的に捕まえれなくなった。風の申し子である陽介が本気で逃げると俺なんかでは捕まえられなくなるんだって突きつけられるようだった。

「友達が大事なのは分かるけど、少しは私に付き合ってよ」
「陽介に何か言った?」
「……」
「言ったんだな」
「……だって、私、彼女なのに」
「もう、いい」

 彼女とは別れた。
 どうしてとかそっちから告白してきたのにとか負け犬の遠吠えよろしく色々と言われた気がするが、適当に終止符を打った。なりふり構わずに振ってしまったから後にいらぬ噂を風潮されるかもしれないがそっとしておこう。どうせ、もう彼女を作ることもない。

 昇降口で隣の下駄箱を覗く。靴があるということはまだ校内に居る筈だ。以前、弁当片手に回った箇所に跳ねた茶髪とオレンジのヘッドフォンを求めてより丹念に探す。見つからない。足の止まった屋上、吹きさらしが肌に堪える。何処に行ったんだ。
 陽介と会えない、話せない、触れられないだけで身体中が干上がり、餓死してしまいそうだった。酸素を求めて必死に水面で口をぱくぱくしている金魚にでもなった気分、最悪だ。

 頬にぴちょんと雨粒。あぁ、とうとう雨まで降ってきてしまった。
 だが、空を仰ぐとそれが雨粒でなかったことを知る。

「陽介」

 求めてやまない鳶色がピクンと跳ねた。
 逃げられないように、怖がらせないように荒れ狂う海のように渦巻く感情を押し殺して、努めて柔らかい口調で話しかける。

「こんな所に居たのか。やっと見つけた」

 逸る心を抑え、退路を断つように貯水タンクの上へと昇る。

「風邪をひく。中に入ろう?」
「……嫌だ」

 制服の裾で顔を拭う仕草をしているのを見て、一人で泣いていたことを知った。

「彼女とは別れた」
「――っ!!」
「性格が合わなかったんだ。実際に付き合ってみて分かった」

 あからさまに慰めるようなことを言うと陽介は自分のせいだと責める。そうではないのだと小さく縮こまる背中に手の平をゆっくりと押し当てる。

「これでもへこんでる。傷心に打ちひしがれる俺を慰めてくれない?」
「……親友だもんな」
「そう、親友」

 この間柄の名称なんて、何だっていい。それで陽介が安心して、変わらぬ距離で俺の隣に居てくれるのなら。それ以上は望まない。

 差し出した手に、外気に晒されすっかり冷えた手が重ねられる。
 どちらともなくきつく握り締められた指先。たったそれだけで凍てついた心が氷解する。これ以上ない幸福に、口元が自然と上がった。








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