ワタシの名前は花子。お父さんがワタシが産まれると知ったその日から出産届けを出さなければいけないその日までうんうんと悩み、つけてくれた大事な大事な名前だ。国民的アニメに出てくる朗らかな女の子になって欲しいという想いを込めた名前なのだと幼い頃に何度も何度もお父さんから言い聞かされてきた。
ワタシは両親から限りない慈しみを受け、名前の由来になぞらえて花よ蝶よと育てられた。お母さんの手から花冠を受け取りながら、ワタシはいつしか思うようになった。貰うばかりじゃなくて、ワタシもこんな風に誰かを愛したい、と。
その夢が今、まさに実現しようとしている。
大谷花子、花盛りの十六歳。
新調したばかりの制服がはちきれんばかりに膨張する。でも、これは興奮から。春休みがあけ、始業式の日に着ようとして着られなかったのと同じ理由にしないで欲しいわ。裏づけするようにドクンドクンと高鳴る心臓が、骨を通して耳に響いてくる。ワタシは今、間違いなく恋をしようとしている。
「大丈夫か?」
「おぉ、すまねぇ……」
あぁっ、声もいいっ! 透明感があるのに、凛としたはっきりとした声色が空気を震わす。お伽話に出てくる星の王子様みたいだ。夜空にひっそりと浮かぶ月色をした髪の王子は、声もいいって相場は決まっているのねっ!
横に転がってる青バケツ男と周囲の雑音は花子フィルターに除去され、聞こえない。アウト・オブ・眼中よ(はぁと)
突如、ハレー彗星の如く現れたワタシの王子様は一昨日、此処に越してきたばかりの転校生だった。しかも驚くことに同じ教室のクラスメイトだなんて! 春新作のケーキを二十個食べたくらいで悲鳴をあげた制服の寸法を測りに行っていなければ――ワタシの制服は凡人とはサイズが合致しないから特注のオーダーメイドなのよ――昨日、出会えていたのに。と、思ったところで即座に「違うわね」と考え直す。日頃から行いの良いワタシのために、天から見守っている神様が今日と言う劇的かつ運命的な出会いをプロデュースしてくれたのよ。
「どうよ。この町にはもう慣れた?」
「そこそこかな……」
早速、後ろの席のモブ男が王子に話しかけている。ふんっ、馴れなれしいわね。同性だからって調子に乗るんじゃないわよ。少しでも王子にヘンなことをしたらアローシャワー――詳細は省くが大ダメージを二回食らわすアバドンの初期スキルである――をお見舞いしてやるわ。
けど――ふんっと鼻を鳴らす。奥ゆかしい私は決して此処で生き急ぐ真似をして、話しかけたりなんかはしないわ。恋する乙女はシャイなのよ。廊下から覗くことしか出来ないウブなワ・タ・シなの。
かぁっと熱くなった頬を指先で冷やしながら、あぁんもうとばかりにくねくねと身体をよがらせると隣のクラスの男子にぶつかられ、ヒッと悲鳴を上げられた。レディにぶつかっておきながら失礼な上に、邪魔な男ねっ!(当然、花子は自分からぶつかる形であったことを知る由はない)
それにしても本当にいい男。月色の髪は勿論、顔立ちも整っている。かと言って今時の草食系とは違う雰囲気を醸し出している。まだ、薄紅色の花が散る肌寒い季節だってのに学ラン全開なところも男前な証。
出来るのならワタシの欲が満たされるまで身体をさわさわなでなではぁはぁしたいところだけど、程好く鍛えられた身体であることは服の上からの目視でも分かる。花子サーチよぉん。
剣道辺りを嗜んでいた、だなんて言われたらドツボのストライクゾーンだわと思いながら、ゴミ村と緑の女猛獣を引き連れて帰る王子様の背中を見届ける。これこそボーイ・ミート・ガール。(正確にはボーイ・ミーツ・ガールだが花子は小さいことを気にしない)
「犬のように鼻ひくひくさせて……里中、どうした? とうとう女を捨てたか」
「バカ村っ! 違うっての! 今、肉センサーが反応したような……?」
「……そっとしておこう」
***
花子は雅やかな女子だから慎ましい行動を心がけている。王子が誰と行動しようと仲良くしようとむやみに邪魔したりしない。本命アタックの出来ないおしとやかな乙女である。
「おっ、おおオレのバイクっ……」
だから、代わりにどうでもいい男のバイクに乗るふりをする照れ隠ししか出来ないの。羽毛より軽い身体で飛び乗った瞬間、タイヤが外れ四方に転がり、パーツの幾つかが飛んだわ。なによ、このバイク。壊れているじゃない。
勿論、乗り気じゃなかったわよ。けど、此処に真っ先にナンパすべきいい女が居るってほんのちょびっとアピールしたかっただけ。見せ付けるように衣替えしたばかりの黄色いスカーフの胸を張る。王子は巨乳がお好きかしらん。バイクが壊れたのは予想外の出来事だったけれど、場から離れやすいもっともな口実になった。
「だ、大丈夫か……花村」
「は……はは……ダメだ。もはや、オレには帰りの足さえねー……」
背中越しに王子が、都会のイケメン気取りの茶髪村を慰める声が聞こえてくる。ちらっと見ると、項垂れ地に突っ伏した村の肩に、優しく手をかけているトコロだった。お気の毒そうな表情を浮かべながらも、友達を元気付けようと無理に微笑を浮かべる王子は素敵だった。
チッと舌打ちしたいのを堪えて、転がりパタンと倒れたちっさいタイヤをぐわしゃあっと踏みつけながらも、ワタシは沖奈の雑踏の中へと身をくらませた。
王子がモブ村と誰よりも仲が良いことは王子を録画する勢いでエブリデイ見つめているワタシが誰よりもよく知っている。言っておくけど、王子のプライバシーが一番だから見つめるのは学校内だけよ。
モブ村とは席が近いし、同じ都会からの転校生だし、共通事項が多く馬が合ったんでしょうね。今もガッチリ王子を捉えて離さない花子アイの目の前でゴミ拾いをしつつも、子犬同士の喧嘩のようにじゃれあっている二人が居る。
緑ジャージの王子も一風変わった感じでアトラクティブだった。携帯の連撮モードで写めることも忘れない。撮影した際、ピロリンとワタシみたいな可愛らしい音が鳴ってしまったけれど、
「おっ、鳴上。腹チラしてんぞ〜! パンツの柄も見えっかな」
「揶揄ってないで、手伝えよ」
山の傾斜より自転車を引き上げた際に、上着と体操着の裾がズボンから抜けてしまった王子の腹チラ話題により気づかない。ちょっと、モブ村。幾ら冗談だからって王子のズボンゴムを伸ばして覗き込むんじゃないわよっ!! そりゃ、ワタシだってちょっとは王子のパンツの柄には興味ある年頃だけど。きゃっ、恥ずかしい。ちなみに眩しい腹チラは撮影ゲチュ済みよ。
モブ村を上手く排除した王子様のベストショットを見つめ、むふんと溜息を漏らす。王子様コレクションがまた一枚、増えたわ。生身ひとつで大空の海に飛び降り、風を切って駆け抜ける高揚感に似た、至福の時をマイワールドの中で堪能していると「あっ」と少しだけ色気を孕んだ王子の声が聞こえた。
「――って!」
「大丈夫か、花村」
どうやら王子が拾った自転車に刺さっていた鉄破片に、不用意に手を伸ばしたモブ村の指先が当たってしまったようだ。まぁ、そこまでは良かった。ただのモブ村の自業自得だから。だけど、事態は急転したの。指の腹をパックリと割り、血を流したモブ村のその指先を、王子が口に運んだその時に。
「「!?」」
一連の動作があまりにも自然に行われて、思考が追いつかなかった。
恐らく同じ心境であるモブ村も、野生のクマに出会った仔鹿のようにカチンコチンに固まっていた。
ぷっくりと厚い薄ピンク色の上唇と下唇で自分のではない指先を含み、濡れた舌先で真紅の血液を拭い、自然と跪く形となった王子の姿は、まるで忠誠を誓う騎士のようだった。天から注がれる木漏れ日に、銀灰色の髪は星屑をちりばめたみたいにキラキラと光り、厳かで神秘的な空気が漂う。
「って、おい、鳴上っ!! ばっ、きたねぇだろっ!!」
「あ……ごめん、つい、反射神経で」
モブ村の声に叩き起こされるまで一瞬、現実を忘れかけたのは事実だった。王子ですら、慌てたモブ村に指先を引っ込められるまで、自分がした行動に気づいていなかったようで。
しばらく顔を赤らめた二人が見合う何とも言いがたい雰囲気となったが、消毒をと促した保健委員でもある王子の一言によりいつもの調子に戻り、場を立ち去っていった。残されたのは、私の腹の中にあるもやもやだけである。
どうしてっ!!
訳のわからない苛立ちがワタシを苦しめる。理性が包丁を持つと危ないと告げたので、傍に居た顔も覚えていないモブに「剥きなさいよ」と命じ、裸体になって返ってきた人参、じゃがいも、たまねぎを手でちぎり、ぐつぐつと沸騰した鍋に投下する。
あんなの許せないっ!!
当たる様にカレールーをめきょめきょ揉みながら、箱ごと真っ二つにし、中から出てきた粉末を鍋に丸ごとぶっこむ。固形のルーを買った筈なのだけど、という些細な点にワタシは気づかない。
いくら同性だからって、同性だからって、だからってえええぇぇぇっ!!
パキパキ悲鳴を上げる菜箸でぐるんぐるんかき混ぜて、モブから奪い取った飯ごうの御飯を皿に丸ごと盛り付けると、鍋にあったルーをすべてかけた。
はぁ……乙女の嗜みである料理をしたら少しは気持ちが晴れたわ。
「な、なぁ……えーっと大谷? そのカレー……余ってねぇ?」
けど、踏み抜くことに対して一級と噂の張本人ことモブ村改め地雷村は、ご立腹なワタシにそれを寄越せと言って来た。だぁれがアンタなんかにっ! 怒りを押さえ込み、平常心で答えを返してあげたワタクシの大天使っぷりに感謝するのねっ!!
地雷村により再熱しかけた怒りをカレーで押し込む。あぁ、王子、そんな瞳で見つめないで。ワタシだって王子にだけは「あーん」してあげたい。けど、そんなことをしたら噂の的になっちゃうから……ワタシは地雷村とは違うのよ。
早々に掻き込み、片づけをモブ共に任せてテントに戻る。食べて、不貞寝を決め込むことにした。せめて、夢の中だけでもと同じカレーを前に「あーん」し合う王子と私を想像しながら、ワタシはエクスタシーむんむんの眠りについた。それこそ、横で「鼻と口ふさいだら、いびきって止まる?」と不穏な発言がされても気づかないくらいには。
これで翌朝、横に寝ていたのが王子だったなら完璧だったんだけどなぁ。夜這いをかけてきた肝に銘じて、大サービスで軽いキスだけならしてあげなくもないわよと思ったけど、大事な貞操は守っておくことにした。
***
「あのさ、鳴上」
「……ん?」
「もっとこっちに来いよ。落ちるぞ」
「え……でも」
「遠慮するなって」
「どうも……」
「……」
「……」
「なぁ……」
「……ん?」
「あんなこと……誰にでもすんの?」
「…………え?」
「オレだから……?」
「……それは」
「じゃあ、試してみよーぜ」
「え?」
「オレだから躊躇なく出来たのか。お前に試してみたい」
***
大人になれば成る程、同じことの繰り返しになる日々は薄く、早く去ってゆくのよ。濃密なのは学生まで、大事に過ごしなさい。
お母さんにそう言われてまっすぐ育ってきたけれど林間学校が終り、長いようで短い夏休みが終り。あっという間に色づいた葉の舞う、実りの秋となっていた。乙女の恥じらいで呼び止めるか呼び止めないかを逡巡している内に、麗しい香りと共にこぶしを利かせた軽トラックは目の前を走り去っていってしまった。
あれは食物繊維の塊のようなものだから身体の老廃物を流しだすためにも食べても良かったんじゃないかしらと後悔しつつも、握り締めていたがま口を持ち直し、木枯らしに吹かれながら家へと引き返した。
明日は待ちに待った文化祭二日目だ。
ワタシがいかに美しいかを知らしめるミスコンが控えている。だからこそ、秋の味覚の風物詩とも言える黄金色のホクホクを躊躇し、逃してしまった訳だけれども。
王子にさり気なくワタシをアピール絶好のチャンス、気合を入れない訳にいかなかった。何気に地雷村は王子と共にミス?コンにエントリーしているし絶対に負けられない。一発入魂よっ! 両手でぴっしゃんと両頬を叩く。何故か周囲に居たモブ女が震え上がったが関係ないわ。
何故だか王子を取り巻く、元・アイドルやら探偵やらを含む幾人の女子よりも、地雷村への危機感の方が強かった。今思えばそれは第六感――虫の知らせだったのかもしれない。
ミス?コンは乱入した金髪アリスの優勝であっさりと決まった。よく見たら王子の次の次の次辺りに狙っていたキンパの美少年じゃない。最近、至極自然に学校内に馴染んでいる子と目をつけていたのだけど。んもう、ワタシ狙いなのかしら。そんなにアピるぐらいなら直接、来てくれれば恋人じゃなくても、従者ぐらいにならしてあげたのに。
クマクマ言っていた金髪美少年はミスコンの審査員の座を得ると共に、ノリで水着審査も導入してくれた。あらあら御姉様の水着姿が見たいなんてイケない子。けど、いい仕事してくれたわ。此処――八十神高校には昔からプールがなく、体育にそのような授業も存在しない。夏のためにと用意したアレがお披露目の機会を失っていたところだったのよ。王子にワタシのナイスバディをじっくり堪能してもらう大チャンス!
モチベーション意地のため、常にワタシの部屋の目のつくところに飾ってあったフリルをあしらったピンクのストライプ水着はワタシのナイスバディラインを思った通りに際立たせてくれた。だが、結果は無情にも水着審査に参加しなかった男女探偵の手に奪われていった。
「男票だけだったならワタシの勝ちだったのにっ!!」
「私も同じ想いよ、大谷さんっ!!」
悔しかった。隣に居た柏木先生と抱き合い、一緒に泣いたわ。ミスコンだけで言えば一番のライバルであり戦友でもあった柏木先生に、勝ちを見越して天城屋旅館を予約してあるからよければ一緒にヤケ酒とヤケジュースをしましょうと言う誘いを受け、二つ返事で了承を返した。
暗い影を背負い込み、意気消沈したまま文化祭の片づけする。あ、とふと気づいた。髪につけていた片方のリボンがなくなっている。
何があっても放映時間五分前にはテレビ前に着席。リアルタイムは勿論、録画もバッチリする程に未だに魔女探偵ラブリーンが大好きなワタシのためにお父さんが用意してくれた色違いの大切なリボンだった。
持っていた竹箒をモブに投げつけ、紙テープやら屋台のゴミが残る校庭を後にする。今日の行動を振り返り、逆に辿っていった。2−2の教室、更衣室として臨時に開かれた教室――そして体育館。
真っ先に片づけが行われたのか、体育館はシンと静まり返り誰も居なかった。先程の熱狂の余韻は嘘のように何一つ残っていない。ただ、間違いなく此処が使われていた証とでも言わんばかりにヒラリと一枚、四角に切り取られた色紙が花びらのように天井から落ちてきた。
ミスコン開催中、ステージから一歩も下りていない。あるならば舞台側だろう。左脇の扉からステージ裏へと回り、隈なく探す。ざっと見た限り、ステージ上にも無かったから掃除の際にゴミとして処理されてしまったのかもしれない。
再び涙腺が緩みそうになったのを我慢して、一縷の望みをかけステージの背景を彩る小豆色のカーテン裏へと回った。思っていたよりも広い。ワタシが横になってもギリギリ歩けるぐらいには広かった。
あ。声に出さず駆け寄る。ラメ入りの濃ピンク色のリボン――ワタシのものだ。取れて上手い具合にカーテン裏の隙間に滑り込んでしまったらしい。
『神様はね、いつも花子のことを見守っているんだよ。良い子にしていると必ず返ってくる』
お父さんの言葉通り。
ピンク色のリボンをお父さんから貰った温かい言葉と共に大切にしまうように胸の内に抱えると、SHRに間に合うように教室に戻ろうと立ち上がった。
その瞬間だった。
「花村っ!」
周囲に気を遣ったらしいくぐもった声だったが、ワタシが聞き間違う筈がなかった。麗しい王子の声だった。カーテンは左右に開くタイプで中腹には隙間があった。意図せず、その隙間からワタシは見てしまった。
「うっわー、ホント、ツルツル。天城やるなぁ……」
「そういう花村だって、里中にやられ――ひっ!」
「可愛くないことを言う子にはおしおき」
「ひゃっ……! だめっ、ここ、がっこっ!!」
理解が追いつかなかった。
ズボンの裾からするりと滑り込ませ肌の感触を確かめていた指先が、今度はワイシャツの中へと移り、胸の辺りで静止した刹那、王子の悲鳴が上がった。既に学ランの上着は肩から滑り落ち、袖の辺りで繋ぎとめられている。
色情をまとう王子の声を引き出した張本人――花村は、弱々しい抵抗する王子の手を顧みることなく、第二ボタンまで外れた首筋に唇を落としながら、息を吹きかけるように囁いた。
「悠子ちゃんが可愛かったから、つい」
「からかうなっ! てか、花村っ、林間学校でキス試した時からどんどんエスカレートしていっているぞ。どういうことだっ!?」
「……こういうことなんじゃね?」
項を舐め上げた舌が一旦引き戻され、頭を上げた花村のカサカサの唇が、王子の厚ぼったく濡れた唇に引き寄せられたのを最後に、ワタシは踵を返していた。
「今更しらばっくれるなよ。好きなんだろ、オレのこと」
***
一条は進撃音を聞いた。
過去形なのは正しい。気がついた時にはもう衝撃だけを感じ、長瀬と共に廊下の端に叩きつけられた。暴走車(?)との接触事故を起こしたようだった。
寧ろ、長瀬の方がとばっちりだったのかもしれない。
「かしわぎせんせえええええっ!!」
「え、なに、ちょちょちょちょちょ、どどどどどうしたの大谷さんっ!? 落ち着いてっ!!」
きょ、巨人に駆逐された。
惨劇の跡しか残らなかった廊下で、後の人間が聞いた長瀬と一条の最後の言葉がそれだった。
***
柏木先生は優しかった。
他の先生たちを上手く言いくるめた柏木先生は自らSHRをすっぽかし、さっさと豊満な胸がさらに際立つ私服に着替え、赤いフレームのおおきなサングラスをかけると乙女のワタシでも思わずきゅんとしちゃうカッコいい女と変貌した。
助手席にワタシを乗せてニッコリと笑うと、颯爽と赤いオープンカーをふかし、首に巻いたスカーフをたなびかせながら天城屋旅館へと向かった。柏木先生は何も聞かなかった。
「とりあえずお風呂に入りましょう。ここの温泉は天然だから肌にいいわよぅ」
戸惑う私の背中をニコニコ笑顔で押すので、仕方なく従う。とぷんと浸かった乳白色の温泉は肌によく馴染んだ。
「ほぉら、この引き上げ湯葉。しゃぶしゃぶみたいでしょう? 独特の歯ごたえと濃厚な味わいがたまらないの。食べて食べて」
同じように地産地消を心がけた美味しくてヘルシーな夕食に舌鼓を打ち、いつしかささくれだったワタシの心が段々と落ち着いていくのを感じた。旅館浴衣の合わせから温泉に浸かり火照った身体を程好く冷ます冷風が入り込む。外を見るととっぷりと日が暮れていた。漸く本題が切り出されたのは、向かいに座っていた先生が夕飯をひとしきり食べ終え、くいっとおちょこの酒を一気に煽った後のことだった。
「そっかぁ、そんなことがあったの」
全てをありのままに伝えることはせず、ぼかしぼかし話した内容に柏木先生はうんうんと頷いた。
「鳴上くん、色男だもんねぇ。あの子、何人の女の子を泣かせてんのかしら」
花村は勿論、王子の名前も一切出さなかったのに先生はすべてお見通しだったようだ。表情に浮かんでいたのだろう。頬をうっすら紅色に染め、悩ましげな唇をぺろんと舐めた先生はあはんと笑った。
「あら、いやだぁ。伊達に教師やってないわよ。相手だって分かるわ、後ろの席の坊やでしょ?」
そーだと思ってたときゃははと少女のように笑い、ちびちびと酒を煽りながらも、次にはもう真剣な面持ちになっていた先生は、極々真剣に言葉を紡いでいった。
「あの子達……あそこの四人はね、纏っている空気が違うの。浮いていると言えば浮いているのだけど、ちょっと違う。たぶんね、普通の人では経験しえないような経験を一足先にしてしまった子達なの」
名前は出されなかったが四人の特定はすぐに出来た。何かとあると自然と集まる赤、緑、オレンジそして王子の星色のことなのだろう。
「たぶん一緒に乗り越えた仲なのでしょうね。普通じゃない絆で結ばれている。眼を見れば分かるわ。だからいつかそうなるんじゃないかって何となく分かってた」
飲む気になれず、ワタシのコップは並々のままだ。オレンジジュースにするんじゃなかった。某村を思い出させる水面色がゆらゆらと揺れる。
「これから何が起きても、その絆を保てるかであの子達の未来が決まる」
自分で自分にお酌している柏木先生はまた、くいっと上に仰ぐ。空になったおちょことトンと膳に置くと潔いくらいに、そして哀しいぐらいにきっぱりと言い放った。
「忘れちゃいなさい、そんな男のこと。あの子に――鳴上くんに付き合っていたら、心臓が幾つあっても足りないわよ」
――信念を持ったイイ男程、待つ女のことも考えずに馬鹿みたいに生き急ぐものだから。
飽きずに水のように日本酒を注いで、おちょこを手の平で覆うように上から摘んで、くるりくるりと水面を揺らしながら座椅子の肘置きに頬杖をつき、遠くを見つめていた柏木先生の言葉には重みがあった。
静寂が、沈黙を優しく包む。
完全な静寂はこの世界に存在しない。耳を澄ませば秋の夜長を飾り付ける虫の音色が聞こえるし、黄金色に色づいたススキの穂が擦れ合う音だって聞こえる。
命ある限り、無音は訪れない。
パッと見たこの世界はとても美しい。そう、お父さんとお母さんがワタシに教えてくれた世界みたいに。でも、柏木先生はやんわりとそうじゃないことを説いてくれている。
幾ら良い子にしていても良い事ばかりが起きる世の中ではないこと。
悪いことをしても報いを受けるばかりではないこと。
愛情を注いだ分だけ、愛情が返されることばかりじゃないこと。
――自分に都合の良いだけの世界なんて、何処にもない。
けれど、天邪鬼なワタシは敢えて思考に転換して、こう問いかけてみた。
「ワタシみたいなイイ女には他にふさわしい人が現れるってことですか?」
柏木先生は見つめていた更ける空から、ワタシへと視線を戻し「まぁ、そうね」と今まで辿ってきた人生を振り返るように深く笑った。
「そういうことよ。恋して失恋して泣いて、どんどんイイ女になりなさい。それこそ、アナタを選ばなかった男を悔しがらせるぐらいに、ね」
さぁ、今日は飲むわよー!
大吟醸片手に言い放った柏木先生に、ワタシはひとつだけ意地悪を言う。
「先生、お化粧していない方が可愛いです」
言うと、柏木先生は最初きょとんとした表情を浮かべていたが、やがて「やだ、もう大谷さんたらっ」と照れながらもあどけない少女のように破顔した。
***
綺麗なのだけど何処か心擽られて、寂しい気持ちになる曲が似合う季節を通り過ぎフキノトウが道端から顔を覗かせる頃、ワタシは王子が一年間という期限付きの転校生だったことを知った。
「鳴上と花村っ、それ近すぎるだろっ!? やっべーじゃん! つか本当にヤバくね???」
「ヤバくないんじゃないか? サッカーしてればあれぐらいの至近距離で相手と競り合うこともあるぞ?」
それを知っている筈の隣クラスの男子共は、そんなことを微塵にも感じさせない調子で、当該人物達を交えて変わりない日々を過ごし、馬鹿をやっている。てぇか、何でこの時期にポッキーゲームなんかを興じているのよ。製菓メーカーによる戦略はとっくの昔の十一月に終わっているじゃない。
「降参するなら今だぞ、悠。負け戦に応じ続けるのは得策じゃねぇぜ!?」
「陽介に素直に宿題見せるくらいなら、応じてやろうじゃないかっ!!」
チョコレートの方を王子、柄の方を花村が銜えたまま、器用にモゴモゴ喋っている。あと一口、二口食べればあの時見られなかったキスシーンが伺えることだろう。
顔の横に添えられた二人の両手は互いの両手に合わせられ、しっかりと握られる。ポッキーを挟んでチュウしないで対峙するためだけに組まれたようにも見えるけど、あの林間学校の時のように素肌と素肌が触れ合っても、露骨に反応することは無かった。
チョコレートか。そういえば今月に入って急に編み物や料理本を手にする女共が増えた。バレンタインに向けて追い込み時なのだろう。ワタシはと言えば柏木先生の言葉を聞いてから、気持ちは宙ぶらりんになっていた。いっそのこと糸が切れて、地面に落ちてしまえば良かったのに。王子のことを王子と呼び続ける限り、糸は切れそうにない。
「つくって、つくって、つくってっ!!」
「一条もこう言ってるし。してしまえ」
「ホモかよ!?」
「男の熱き戦いの末の友情の証だ」
今はこうして馬鹿なやり取りに囲まれ笑っている王子だが、11月から12月にかけて居候先の従妹が誘拐された件を切っ掛けに、日に日に憔悴していった時期があった。近くには決まってオレンジ村が寄り添っていた。霧がどんどんと濃くなり、誰もかれも不安に喘ぐ中、ワタシの存在など近づく隙なんて無かった。
12月中旬、久しぶりに晴れ上がった空を見て「乗り越えたのねぇ……」と教室の窓枠から見上げていた柏木先生は他人事のように呟いていた。あの時の言葉の意味をずっと考えている。
「ついたって! チッスしたぞ、今したよな、したぞ、こいつら!?」
「すまん、くしゃみして見てなかった」
「はぁっ!?」
悩んだが、ワタシらしくないかと開き直った。放課後の喧騒を振り切り、いつもより早足で帰った私はジュネスに寄り、女群がる特設会場を持ち前の躯体でブルドーザーの如く跳ね除け、ゲットした材料でちゃちゃっと目的のものを作り、次の日に学校に持っていった。そしていつものようにピカピカに磨きあげてから、いつもそうしていたように靴箱の中にそっとそれを押し込んだ。
気がついたら、薄紅色の蕾が膨らみパッと弾け飛びそうな季節になっていた。王子は明日、此処を経つそうだ。
気持ちが浮つき、居ても経ってもいられなくなったワタシはクリーニングに出す筈だった制服に袖を通し、自然といつもの道を歩いていた。休日になると、いつもは閉まっている筈の校門は開放されていて、ワタシ以外の生徒も幾人か校内をうろついていた。
すっかり綺麗になってしまった緑色の黒板を見つめながら、ワタシが座ったのは王子の席だった。次に来る時はもう王子の席ではない。ワタシもこのクラスの生徒ではなくなる。また、新しい一年が始まるのだ。
時の流れは無常だ。か弱い女子高生の手ひとつでは相撲部の大将を跳ね除けることは出来ても、目に見えない悠久の刻を止めることは出来やしない。
4月――此処に来た頃、まだぎこちない笑顔を浮かべ、他人と接するのを少しだけ戸惑っていた王子の姿を思い出す。
6月――林間学校でカレーをすがるような目で見つつも何も言えなかった王子の表情を思い出す。
9月――新学期になって、少しだけ垢抜けて笑うようになった明るい笑顔を思い出す。
12月――霧に包まれていく町を見て、睫を落とし、瞳を細めて浮かべていた耐える表情を思い出す。
2月――かかさずチェックしてくれていた下駄箱に溢れんばかりのラッピングで詰め込まれていた花子特製のチョコレートケーキを見て、言葉に出すことなくクスっと笑った口元を思い出す。
そして、3月。
「どうしたの?」
驚くことに、本物の王子が目の前に居た。自分の席だった場所にワタシが居て少々驚いていたようだけれど、どの月よりも良い表情を浮かべていた。此処に来た時から王子はイイ男だった。けど、この狭い町の中で出会った仲間と時間を共有し、数々の経験を重ねていった王子は更にイイ男に磨きあがった。その背中にはアイツの姿があった。言葉交わすことなく、背中を安心して任せられるのだと言葉無く、言われるようだった。
「何よっ! べ、べつにアンタのことなんか……」
分かってた。王子がこんなにもイイ男になったのはアイツのお陰でもあること。
けれど、やっぱり悔しくて仄かな笑みを浮かべ、優しく問いかけてきた王子の声に、ワタシはつい憎まれ口を叩いてしまった。
馬鹿、馬鹿、花子の馬鹿っ!
素直なことだけが、ワタシの取り得じゃなかったの!?
後悔したって遅い。出てしまった言葉はもう戻らない。
早く帰りなさいよっ! 明日、都会に帰って二度とその面を見せないで頂戴っ! 恋心を捨てるように、出来る限りの罵倒を吐き出してしまおうかと思った瞬間、差し出されたのは薄水色のハンカチだった。
「あげる、下駄箱のお礼に。今、とっても必要そうだし」
言われた言葉の意味が、理解できなかった。
けど、王子の視線が下に向かったのを見て分かった。王子の机にはたくさんの雨粒が落ちている。目の前が涙で見えなくなった。文化祭の時よりも、いっぱいいっぱい声をあげてわんわんと泣いた。
やっぱりアナタはワタシの優しくて素敵な王子様。
絶対にアナタに見合うイイ女になって、フったことを後悔させてあげるんだからねっ!!
***
※柏木先生の蛇足。柏木先生の言葉の裏側を知りたい人向け
※花主要素は皆無です。P3とキタロー好きが読めばいいと思います
※P3Pイベントのネタバレ含みますのでご注意を
「忘れちゃいなさい、そんな男のこと。あの子に――鳴上くんに付き合っていたら、心臓が幾つあっても足りないわよ。信念を持ったイイ男程、待つ女のことも考えずに馬鹿みたいに生き急ぐものだから」
言いながら、二年前の夏の日のことを思い出す。
屋久島の海よりも深い藍色が印象的な子だった。ひよこちゃんのくせに、背伸びして私をナンパしてきたものだから、少しだけからかってあげたあの子はもう――この世に居ない。
月光館学園の令嬢が屋久島の別荘に友人と共に来ていたことを後から知った。あの子はきっとその内の一人だとすぐに推測がついた。ネットワークゲーム内で、ひょんなことで知り合ったハンドルネームY子こと鳥海いさ子が同校の教師であったことを知ったのもそんな頃だったと思う。
「そーいえばぁ、昔、アンタのトコの生徒にナンパさたことあんのよぉ」
「えー、マジでぇ〜?」
意気投合し、オフ会を開いてから同じ教師ということもありすぐに意気投合した私達は暇を見つけては居酒屋にしけこみ、上司や同僚への愚痴を肴に、朝まで飲み明け暮れていた。
「もしかしてぇ、知っている子かなぁ。名前は分からないんだけど、前髪がぼたっと長くてぇ、片目が隠れがちでぇ、深いマリンブルーの瞳の子」
そー言えば、ナンパの割りに寡黙だったわぁと付け加えると、鳥海先生は瞳をうるうるさせたかと思うと急に泣き出したのだ。吃驚した。上司から無理難題を言われたり、使えない同僚に付き合わなきゃいけない時でも、愚痴愚痴言うものの泣き言ひとつ言わなかった先生が、いい歳をしてわんわんと泣いていた。
落ち着かせて話をよくよく聞くとたぶんその子は自分が受け持ったクラスの子で、二年前に――私があの子と出会った翌年に原因不明の病気で眠るように亡くなったのだと言う。
「皆はそういうわ。けど、私には分かるの。あの子はこの世界を守った。あの子と絆を育んだワタシには分かるのよぉっ!!」
酔っ払いの戯言と片付ければそうだった。けれど、そうじゃないのだという鳥海先生の心の響きが伝わってくるようだった。
机に突っ伏してしまった鳥海先生の背中をさすりながら馬鹿ね、と私は思った。鳥海先生がじゃない。あの子が――だ。人を引き寄せる何かを感じた子だ。きっと、鳥海先生以外の子の気も惹いて、同じように涙を流させたのだろう。
自身と引き換えに世界を守った、だなんて。
本当に馬鹿な子。何人ものイイ女を置いて、自分だけ死んでゆくなんて。ズルくて、酷い男。けれど、女は女でズルくて、泣いて哀しみながらも、いつかは立ち上がって前を歩いてゆく。そうやって辛い経験を重ねて、どんどんイイ女になってゆくのだと思う。
「今日はゆっくり休みなさい」
結局、一口も口にしなかったオレンジジュースを置いたまま、眠りについてしまった可愛い教え子に布団をかけながら、鳴上くんに似たあの子との綺麗なアルバムの一ページをそっと心に閉まった。
BACK