耳の奥にゴゥンゴゥンゴゥンと地響きの似た静かなうねり音が鳴り響く。不協和音にも捉えかねられないメロディは、どうしたことか自分の中にある眠りをいざなう周波数と同調するらしく、此処に来る度に心地良い眠気を誘われる。
視界を埋め尽くす重厚で落ち着いた蒼色。照度が落とされたライトはまるで夜空に浮かぶ星だ。周りを彩る冥い色に加えて、この小刻みに揺れる振動も宜しくない。絶えず上昇し続けるこの箱は、まるで自分専用におあつらえた揺りかごなのではと勘違いしそうになる。
うつらうつらと船を漕ぎ出しかけたが、ジャックフロストに「ブフだホ!」と真正面から冷気を吹きかけられて一気に覚醒を促された。
「私に紹介したい殿方が居る。そのような解釈で宜しいでしょうか」
「大体……あってる」
少し違うような気もしたが、趣旨は合っているし、何より更なる説明は面倒だったので頷くことで合意する。低温火傷しかけた鼻をさすりながら彼女を見やるとべーるべるべるべるべっと〜と鼻唄を歌いながら謙譲したフロスト人形を飾り付けていた。手に持たれることなく彼女の横に浮かんでいた分厚い本に、眠気覚ましをかましたジャックフロストがカードとなり消えていったのを見届ける。
「貴方が住んでいる世界のぬいぐるみ技師達は大変素晴らしい手腕の持ち主なのですね。実物と人形、比べてみましたが寸分の狂いなく精巧に作られてました」
ふかふかお腹の再現率も実によく出来ております。
表情に変化は無いが、やや興奮気味の口調。大変、ご満悦の様子だ。主を称える歌と言いながら、貶しているようしか聞こえない彼女の歌にイゴールのぎょろりとした黒目がこちらに向けられる。そのことについても、また、鼻の高いイゴールの目覚めを促す時も先と同じことをしない方がいいよと水を差すことは控えておいた。
「なぁなぁなぁなぁなぁっ! 一生のお願いだよっ!!」
毎年、毎年。南の海で季節が到来すると「待ってました!」と言わんばかりに発生し、北上ついでに勢力を強めて、やがて列島全体にガルダインを巻き起こす自然現象、台風が一過した次の日のことである。置き土産に置かれていった熱帯低気圧にぐんぐん上昇する温度に項垂れていたところ、それはやって来た。
「ごめん。寝てて……聞いていなかった」
「だぁからぁっ! お前がこの前、お忍びで連れてきていた美少女のことだよっ!」
名前は分からない。だが、何処か見覚えのある顔だった。よって、クラスメイトなのだろう。順平や友近ぐらいに個性がないと名前と顔が一致しない。机とくっつけたままの頬をそのままに、起動しない思考のまま逡巡する。
「お前の背中にそ、そのむ、胸をべべべべべったりくっつけていたあぁっ!!」
あぁ、エリザベスのことか。合点がいく。あれは目立たないように彼女、自らがしてきたことだ。確かに柔らかな感触が背中に感じられたが、今はそんなことよりも熱くて死にそうなことの方が重要だ。このままでは身体中の血液が沸騰して、溶けてしまう。
「エリザベスさん! 思っていたとーりの気品ある名前っ! ますます気になるじゃねぇか、畜生!」
「エリザベスが……なに?」
「紹介して、な?」
片目ウィンクと手パンがすぐ横で繰り広げられる。片目ウィンクはただ両目を閉じているだけのようにも見えたが、突っ込むのは面倒だ。それよりも顔を近づけるな、暑苦しい。
ズズズズズと顔を先の位置に戻す。本物の木で作られた机は熱を帯びることなくしっとりとしていて冷たい。ひんやり。流石、天然もの。惰性で首に落としていたイヤホンを手に取りそうになったが、熱すぎる手に遮られた。だから熱いと言っている。
「有里の彼女……じゃないんだろう?」
エリザベスは彼女ではないが面倒だ。あと、熱いんだ。いっそのこと、身体中を蕩けさせてシャドウ化して、机と一体になってみてはどうだろう。……なかなか、いい考えかもしれない。
とにかく眠いんだ、眠らせてくれ……と頼むと、俺の願いを聞き届けてくれたら! と一向に旅立つことを許されない。それどころか、愛しの机からバリッと剥がされ、ガクガクユサユサと揺すられる羽目となった。
「清浄なる蒼き異国の服から覗く白い陶磁器のような二の腕! 風に流れるアッシュグレーのさっらさらなお髪! 控えめなお胸ときゅっと締まった腰、小さめのヒップにいたる曲線美っ! スラリとした長いおみ足っ! 罵られながら、ヒールで踏まれたいっ! どれも俺の激ツボ、好みなのっ! 一生に一度の出会いっ! 一期一会と言うだろう、なぁ、有里大明神さまぁっ!!」
パッと手を離され、愛しの机とセットの椅子に優しく受け止められる。あぁ、こっちもヒンヤリ。目の前で掃除前の床に熱い唇をつけんばかりに深い土下座をした顔も知らないクラスメイトのことなど忘れて、至福の時を過ごしたい。
過ごしたかったが――教室四方から降り注がれる好奇の視線と、近くで事態を静観していたらしい岳羽に深い溜息をつかれながら肩ポンされた瞬間、つかの間のシエスタ願望は夢のまた夢と消えた。
どうでもいいけど土下座、お尻が上がりすぎ。
「ははは、はははっははははじめまして、俺は――」
彼女の都合もあるし、機会があったらと控えめな約束を(半ば強制的に)取り付けられたものの、未だ名前も分からないクラスメイトに熱すぎる鼻息荒く、押され押され押され。結局、強引すぎる要請にその日の当日に彼女を連れ出す下りとなった。未だに首筋に残る熱気が気持ち悪い。もう一度、やられると思うとゾッとする。二度とそんな目にあうのはごめんだ。
依頼という形でしか外に出たことのない彼女を、こちらの意思で連れ出すことは果たして可能なのか。諦め半分で訪れたが、特に異論無く事は済んだ。熱すぎるクラスメイトとの邂逅も今日までと思うと幾分か気持ちが軽くなった。
手短に済ませてくれ。自己紹介に時間をかけている場合ではない。
「よーっす、有里。ん、何、おもしろそーなことしてんだ?」
校舎の方から順平がやって来た。
下りの昼休み、購買前における学園有数の大人気パン争奪戦に参加した順平は、女子ラクロス部の猛烈なる進撃に弾き飛ばされ敢え無く撃沈し、教室の片隅で白い灰となっていたため、あの騒動を知らない。手短に事の経緯を話してやる。
「なになになにー? 健全なお付き合いをしたいってことっ? 若いですね、ひゅーひゅー」
「け、けけけけけけっけけけ、けんぜんなおおおおおつきあいだなんて、はいっ! したいですっ!!」
若いって……順平だってそのナリだけど、同級生じゃないかと思ったが、己の意見などどうでもよい。思惑通り、調子の良い順平がぴゅーぴゅーと口笛を鳴らしながら囃し立てることで場がいい感じに温まった。口下手な自分には出来ないことだ。自分は、早く適切な温度管理がなされている寮に帰りたい。
「ケンゼンなオツキアイ、とは?」
「うっわー、噂には聞いてはいたけど……おまっ、ほんっと、隅に置けないよな。本当にゆずっちまっていいの?」
首を傾げたエリザベスに満更の様子でもない順平が肩に手を回し、背中をバンバンと叩いてくる。だから、熱いって。さり気なく解き、さり気なく「だから違う」と否定する。
「健全なお付き合い。そーですねぇ、まずは『おトモダチ』から始めるのがいいんじゃあーないでしょうか」
「おと、おととととおとととととととともだち!」
急にかしこまる順平をさらりと流し某クラスメイトを見やると、口調も行動も舌を切られてのたうち回る煩い鳥のようだ。あれだけ熱く、饒舌に語っていた姿は何処に行った。順平が通りすがってくれて本当に良かった。そして、どうでもいいから早く帰りたい。灼熱の太陽がチリチリと薄っぺらいワイシャツを通り越して肌を焼いていく。ロウソクの蝋みたいに溶けてこれ以上、背が小さくなったらどうしてくれる。
「ええええええエリザベスさん、俺とおおおおおおおおおおトモダチからっ、始めませんかっ!」
「おトモダチ……ですか?」
漸くマトモな言葉を言えたようだ。チラッとエリザベスがこちらを伺うような視線で見てきたので、うんと頷く。
「大丈夫……ちょっと暑苦しいけど、危険なものじゃない」
「その説明ってどーなんよ、有里」
順平は目を丸めて驚いていたが、当のエリザベスは意に介していないようだ。血色の良いピンク色の薄い唇を開くと「分かりました」と涼しげな笑みを浮かべた。エリザベスの肌に汗は滴っていない。羨ましい。こちらはもう汗がダラダラだ。だが、これで帰れると思えば少しは爽涼になれた。
意を汲み取ったように、お節介な順平が「有里くん。真夏の太陽より熱い二人の前に僕等は不要と言うもの。オレ達は消えるだけだ。ささっ、お二人は遠慮なさらずデートでもなんでもしちゃってくださーい」と似合わない気障な台詞を言いながら、肩を押してくる。熱いが嫌な暑さではない。
昨日、お腹の調子が悪く、半分残したアイスを冷蔵庫に入れておいたことを思い出し、ほくほくと順平と共に帰路につこうとした。
が。ツン、と引っ張られた服の裾。楕円の黄金色の瞳がこちらを見上げていた。
「…………なに?」
「わたくし『おともだち』は知りませんでしたが……『でぇと』については弟から聞きかじったことがあります」
依頼をクリアすると偶に口にしていた噂の弟君のことだろうか。
姿かたちを見たことはないが、言葉の端々から伺うと……その、あまり良い扱いを受けているイメージは無い。そのような様子を微塵にも感じさせない無垢の瞳が身体中に注がれる。
「親密な関係に進みつつある男女が連れ立って外出し、一定の時間行動を共にすること……とか」
「合ってる」
「なら、わたくし『でぇと』は貴方と参ります」
「「「!!!???」」」
エリザベス以外の三人の頭上から感嘆符が飛び出した、ような気がした。
現に名前を覚えていないクラスメイトは有頂天な様子が一変し、目を白黒させている。順平はあちゃーというお馴染みの顔をしていた。見ない振りをしよう。
周囲の様子などに一切、囚われることのない彼女は、群青色の指先でズボンから引きずり出てしまったワイシャツを握り締めながらも無邪気に言い放った。
「貴方のご友人と『おともだち』なるものになるのは構いません。ですが、『でぇと』は貴方とだけしたいと存じております」
クラリと眩暈を感じる。とうとう暑さにやられてしまったようだ。
顔も覚えていない(以下略)も熱中症になったのだろう。顔を赤・青・蒼白と七変化させて、意味の無い言葉の羅列を吐き出している。
灼熱のコンクリートの上で完全なる鉄板焼きになってしまう前に、念のため聞いておくことにする。
「……何で?」
言葉を刻んだエリザベスに迷いは無かった。
「いつか貴方は、わたくし自身が渇望し、けれど埋められなかった空っぽの『何か』を……わたくしの全てを満たしてくれる。そんな予感があるのです」
とうとう、顔も(以下略)が自らの首を絞めあげ、ブクブクと蟹のように泡を吹いて卒倒した。順平が顔(以下略)とこちらを交互に見て、慌てふためいてくる。言っておくが、今の言葉に順平達が想像したような卑猥な意味は断じて含まれていない。だが生憎、それを伝えるだけの伝達力は自分には無かった。
「……分かった」
自分で言っておきながら、何が分かったと言うのか。
突っ込まれそうだが、知ったことではない。服の裾を掴んでいた、エリザベスの指先をそっと離す。それで彼女が不安がるような素振りを見せることは決して無い。
「……行こうか」
「はい」
彼女は、自分に絶対的な信頼を寄せてくれている。
控えめに差し出した手の平に、群青色の手袋に包まれた指先がそっと乗せられる。殆ど温度が感じられない冷たい指先がひどく心地良い。
ポロニアンモール、巖戸台、長鳴神社、此処――月光館学園と、この半年間で彼女を連れ出し、たくさんの場所で共に過ごした。この瞬間になって漸く気づいた。彼女のために時間を割くことが苦じゃなかったこと、連れ回すのが面倒じゃなかったこと、誰よりも一番どうでもよくない、って思った。乗せられた指先を軽く掴み、共に歩き出す。
岳羽や山岸が、胸に手を当て「キミと居るとね、此処が満たされて温かくなる」と言っていた時があった。よく理解出来ていなかったけれど――何となく、こういう気持ちのことを指すのかなと漠然と分かったような気がする。
途方に暮れた顔で順平がこちらを見つめている。哀れに見えてきたので、そっと指示を出しておいた。
順平、その人、保健室に運んでおいてくれないかな。心配ない、江戸川先生が怪しげな薬品の数々を棚から次々と取り出して「どれがいいですかねぇ、むっふっふ」と言いながら、熱さまし(たぶん)を調合してくれるから。一口飲んだ途端、頭が朦朧として、記憶が混濁するかもしれないけど、今日のことを綺麗さっぱり忘れた方が彼のためになる。
「わたくし、アレが食べたいです」
「アレ……あぁ、アレね」
「共に頼んだアレも……口の中でしぱしぱと小爆弾が弾けるアレでございます」
「コーラね」
今度はメロンソーダと100%果汁オレンジジュースと混ぜちゃ駄目だよとそっと制するとエリザベスは頬を桜色に染めて「はい」と笑った。
……ような気がした。
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