薄灰色の曇天が、空を支配している。さすがのお天道様も空を覆いつくす雲には勝てず、届くのは僅かばかりの薄日。実に素晴らしい。日焼けを気にしているのではない。暑くないことがこの上なく大事なのだ。
「キミの肌、白いよね」
机に突っ伏してのびのびと快眠を貪っていた時、岳羽に指先で突っつき回されたのは今日の昼休みこと。
白くてきめ細やかでもっちもちのお肌、男の子にしておくのはもったいないと言われながら、ぷにぷにもにょもにょ頬を揉みしごかれた。
顔を目掛けて飛んできたボールをひょいと首を右に倒すことで避ける。
「羨ましい。どんなお手入れをしているの?」
いつの間にか加わった山岸までもが頬を摘み左右に広げながら、出来立てのマシュマロみたいと呟いた。残念ながら頬は、菓子のように柔らかく千切れたりしない。そっと「もう、いいかな」とやんわりと指先を外して逃げる。
ヒリヒリ痛む頬を机の上にぺたりとつけながら、最適な眠りにつけるポジションに身体の体勢を整える。もう堪忍してくださいお代官様と込めた消極的な態度は彼女達に少しも伝わらず、美白・美肌を保つためには! なる講座がそのまま頭上で展開されてしまった。
「へぇ、風花ってこのブランド、使ってるんだぁ〜」
「ゆかりちゃん、凄い……毎日かかさず、ここまでのスキンケアをしているだなんて」
「そんなことないよ。顔をよく洗って化粧水と美容液、乳液をしているだけ」
それだけで十分だ。
二人の口からは外国製チョコレートの名前に似たブランド名が次々と飛び出してきた。精々分かったのは、たなか社長が出しているプライベートブランドぐらい。
それらの順番を間違えることなく、適量を手に取り、適切な塗り方をしていくことでスキンケアは成されるらしい……女の子は大変だ。同じことの繰り返しとは言え、家庭科の調理実習でもないのに緻密な計画、計算しつくされたレシピを実行せねば、二人の言う水分をたっぷり含んだ産まれたての赤ちゃん肌が保てないだなんて。
更に、顔を目掛けて飛んできたボールを反対側に首を倒すことで避ける。
「やっぱり。何かしているんでしょう、キミ」
突くだけ突いて、部外者へと脇に追いやられた筈だったが壁に当たって跳ね返ってきてしまったようだ。やっと痛みがひいた頬を、再び摘み上げられる。深層の淵まで辿りついていた眠気もろとも引っ張られたが、岳羽や山岸にしてみれば知ったことではない。
「ひゃにもしてない」
「嘘だよっ! こんなにも剥きたてのタマゴみたいにつるつるでまっ白なのにっ!」
「そうです! こんなにもむっちむちで張りと弾力に優れたお肌なのに!」
本当に何もしていないんだってば。必要最低限のこと慎ましくしているだけだ。食して、寝る。それだけでは駄目なのか。やっぱり、女の子は大変だ。
「キミのプライベートに張り付くよ!」
「そうですよ!」
喚く二人を宥める術はない。右側を岳羽、左側を山岸に引っ張られるまま、呻く。結局、定刻に鳴るチャイムの音が鳴るまで離して貰えなかった。
ぼんやりと昼休みの出来事を回顧しながら、やはり顔を目掛けて飛んできたボールを仰け反ることで避ける。と、痛い思い出ではない現実世界から、友近の激が飛ばされた。
「おいっ、有里っ! 避けないで取れよっ! 何のために眠い眠い眠い動きたくないと言っていたお前をそこに配置したと思ってるんだよっ!」
追随され「あ」と気づく。
間もなく、黒と白の五角形のパネルで形成されたボールが眼前に見え、的確に捉える。瞬時に判断し、指先でパシンと弾くと歓声が上がった。そうだ、今は会話のキャッチボールを聞いているだけの時間では無かった。
「お前、本当に逸脱した超人なのか、タダの天然凡人なのか……判断に迷うよな」
腑抜け――自分のことだ――の代わりに、足でゴールキーパーを務めていた順平が呟いた言葉は終了のホイッスルに掻き消えていった。
***
昼休みに体育の授業、いまいち集中出来なかった理由の全ては此処にある。と、自分は考えている。
「……」
らしくないことを考えるからだ。けれど、このままで引き下がれない。
淡い光を放つ鍵を鍵穴に押し込み、扉を開くと見慣れた蒼色が目の前に広がった。
「ようこそ、ベルベッドルームへ」
聞きなれた声色が定型句を告げる。ここまではいつもと一緒。
だが、言わねばとひと思いに仕留めるぐらいの面持ちで、顔を上げた先に待っていたのは――、
「……なに、しているの」
「『きゅうりぱっく』でございます。肌を引き締める効果があると仄聞しまして」
――顔中に、艶やかなてかりを放つ円形の薄黄緑色をつけた馴染みの顔。きゅうりの輪切りの間から覗く黄金色の瞳が爛々と輝いている。
此処にも美白・美肌ブームの余波が。決意が萎えかけたが、これ如きで言えないなど男が廃る。気を持ち直した。
きゅうりぱっく、か。岳羽達が話していた内容にも確かに出てきた。90%以上が水分で、ビタミンCやカリウム、カロチンが含まれていて……お肌の保湿に適した世界一カロリーの低い果実と評判、だとか。
だが、岳羽達はやったことがないとも言っていた。面倒な上に、きゅうりに含まれる物質が光に反応しやすく、パック直後に紫外線を浴びると肌が炎症を起こしやすいのだそうだ。本日、仕入れたばかりの知識をエリザベスに伝えた。
「まぁ、そうでしたの。やはり『いんたぁねっと』を安易に信じてはいけないのですね。手軽に情報提供できる場を利用し、善意に見せかけ人々を誑かし、揚げ足を取る。魑魅魍魎の社会を投影した錯乱の場所……肝に銘じ、慧眼を養いたいと存じます」
解釈の仕方はともかく。
モジュラージャックがないようだが。いや、そもそもパソコンがない。モバイル機器? そうかもしれない。携帯電話にエリザベスからの着信はある。非通知設定だが。エリザベスからの電話は非通知設定を拒否にしてもかかってくる。後で非通知番号による着信音を主であるイゴールを歌う、エリザベスの歌にしておこう。そう、思った。
同時に、言っていて気づいてしまった。
「本日はどのようなご用件で」
言わなくちゃと思っていた言葉は出てこない。
きゅうりぱっくをしてしまったエリザベスを外に連れ出すことは出来ないからだ。まさか、きゅうりぱっくと紫外線にプランの邪魔をされるとは……想定外だ。
「……大した用事じゃない」
またの機会に改めよう。
全書からネコショウグンを引き出して欲しいと依頼しつつ、本日のミッションが不発に終わってしまったことを悟り、落胆するしかなかった。
***
翌日、懲りずにベルベットルームを訪れた。
「ようこそ、ベルベッドルームへ」
「……だれ」
「エリザベスにございます」
自分が知るエリザベスとは聊か違う顔だ。瞳と口元の周り数ミリを残し、顔中が黒く塗りつぶされている。かつて助けた山岸のクラスメイトの肌よりも遥かに黒かった。シャドウ化した、とか?
「本日はコラーゲンたっぷりの『アレのぱっく』でございます」
通りで生臭いわけだ。
まさか、とは思うが。わざわざ海に足を向けて、素手でアレを狩猟して、依頼で手渡した剣で捌いた、とか言わないよね。いや、好奇心旺盛なエリザベスならやりかねない。過程は聞かないことにした。
失われない黄金色の輝きに見つめられながら、トートバックから密封パックを取り出す。伴って、ボロボロと保冷剤が零れ落ちた。過剰包装しすぎたかな。後で拾えばいいやとそのままにしておいた。
「……食べて」
「まぁ、こちらはわたくしに?」
「前に、美味しそうに……よく食べていたから」
パツンパツンに膨れあがった財布片手にハシゴならぬ近隣の店、全品大人買いと言う名の食べ歩きツアーをエリザベスと共にしたことがある。それこそエリザベスは空気を口にするように小ぶりの口にパクパクと放り込んでいったが、自分は7食目のラーメンをすすった辺りで生命の危険を感じるスリルに満ちたものだった。
ワイルドダックバーガーのペタワックセットをペロリと平らげる大食漢の自分でさえ根をあげた巖戸台での熱烈な出来事。ワックをおごってくれた順平が「金が見当たらないぜ」と財布片手にきゅっと帽子を目深に被ったことは忘れても、命に直結した食べ歩きツアーを忘れることはきっと無い。
それに。
『あぁ? 美肌・美白にいい食べ物だとぉ?』
きゅうりがパックになるぐらいなのだから、コロマル曰く『うめぇモン』を作る荒垣なら何かを知っていると思った。いぶかしがる荒垣に「そう」と言い、じいと見上げると、しばらく自分の顔を見ていた荒垣は「……ちょっと待ってろ」と言い残し、キッチンへと消えていった。
言われるがままに待ち、十分が経過した。うつらうつらしていたトコロに、荒垣はトレーを持って帰ってきた。
『立ったまま、寝ていやがったのか。器用なヤツ……ま、座れ』
言われるがままに席につくとトン、トンと小切れ良い音をたてて並べられたのは食事。湯気のたつツヤピカ御飯、青菜と油揚げのみそ汁、ツンと程好い香味の効いたしょうが焼き、あざやかなカラメル色をした筑前煮。たっぷりのコーンがかけられたトマトときゅうりのサラダも添えられた。
見事なる一汁三菜。おぉと感嘆するとカチャンと目の前に箸が置かれ――素晴らしいことに魚の箸置きまでつく心遣いだ――「食え」と促された。
「料理が趣味の先輩に聞いたら、バランス良く食べて、たっぷり寝るのが一番だって」
いただきます。
両手を合わせて箸を進めると、眼光鋭い険しい表情のまま、荒垣はそう言った。エプロンをつけたまま言われても迫力に欠けたが、うめぇモンをかきこむ方が大事だった。御飯一粒残さず食べたのは言うまでもない。寧ろ、三杯程、おかわりを頂戴した。
ごちそうさま。再び両手を合わせて、感謝の言葉を述べることも忘れなかった。
「だから、食べて」
まだ余っているから好きなだけ食えと荒垣が言い残した分を詰めてきたものをエリザベスに手渡す。薄っすらとクリアに中身が見える入れ物が不思議なのか、オベントウなるものを知らないのか、上下左右斜めとありとあらゆる角度からエリザベスは興味深げに覗き込んでいる。
「よく食べて、よく寝るの……エリザベスは得意?」
「はい、健やかな毎日を過ごしております。日の出と共に起床し、市井で頂いた料理を再現し、日が落ちると共に眠りについております」
だから時折、夜に訪れると瞳を開いたまま、眠りについているんだね。
エリザベスは「転寝などしておりません」と毅然と反論していたが、今度からは反応が無かったら「おやすみ」と言ってあげよう。
「一度、再現料理を口にしたところ、ステータスが毒になってしまったことがありますがご安心を。今は弟が実験だ……失礼、試食係にございます」
「……そう」
噂の弟くんの不憫さを垣間見たが、居るか居ないのか存在が怪しい人物を守ることは難しい。もしも本当に居たのなら、不憫さに免じて双子の妹を紹介してあげたいなとふと思った。自分たちと同じく波長が合いそうな気がする。
生憎、自分には双子の妹など存在しないけれども。
いずれにせよ喜んでくれたのなら嬉しい。
これらはどのように食するのでしょうと嬉々とするエリザベスを見守りつつも、そっとハンカチを出しだす。
「顔、洗った方がいい。そのままじゃ、出掛けられない」
エリザベスの気が済むまでオベントウを見つめさせてあげたいが、日が暮れてしまう。時は有限だ。黒い顔のまま、エリザベスが目を丸めて、こちらを見上げた。
「依頼……ではありませんよね?」
うん、違うよ。
首を横に一度、振る。
「その……まえの、それ、がさ。自分のせいで途中で……終わっちゃったから」
「以前、殿方を紹介して下さった日のこと、でございますか? 確か、アレが混入したアツアツ喰いに挑戦したいと申したところ、一口目で貴方が卒倒された日と記憶しておりますが」
そう。
情けないが非常に正しい記憶だ。最終的に、暑さに負けてしまった己が憎い。バツが悪く、歯切れの悪く、言いよどんでしまう口調。
えぇい、くそ。
今一度、己を奮い立たせて、もやもやとしたものをぶちまけるように、意を決して秘めていた言葉を口にした。
「それをやり直しにいこう」
あの時と同じように手を差し出す。今度は倒れない。らしくないかもしれないけど、やり遂げるんだ。
この際だから、と。勢いのままに。
率直に感じていたことも続けて言葉にしてみた。
「あと、何もしなくても……エリザベスは綺麗だよ」
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