閉じていた瞳を開くとそこは一面の雪景色だった――と、ドコゾの物語のように始められたら、どんなに良かったことだろう。残念ながら今、自分の目に映っているのは何処の家にも何処の部屋にもある、ありふれた天井だ。
 しかもそのありふれた天井には幾つかシミがある。とある物語の主人公達はおもむろにシミの数を数え、位置を確かめたりして自分の部屋だと気づくパターンが常套だが生憎、自分には皆目検討がつかない。
 偶の休みはネットゲームをするぐらいの引きこもりと言えど、平日の大半は授業に明け暮れ、深夜には特別課外活動なんかもしている身の上だ。ベッドに入り、瞳を瞑った暁には5秒でおやすみコースでも、文句を言われる筋合いは無い。
 せめて、周りの景色さえ見せてくれれば――と思考を巡らせたところで、自分の部屋は同年代の若者にはあるまじき殺風景な部屋なのではという結論に達する。ベッドがあり、机があり、勉強道具があり、カレンダーが貼ってある程度の。苦労してゲットした人形を飾っていればまた、勝手は違ったかもしれない。
 いや、ヒントのひとつやふたつは転がっているだろ。例えば青を基調とした部屋だとか。そんな、くだらないことを考えるくらいには動揺していたのだと思う。そもそも天井のシミなんてどうでもいい。その天井のシミを背景に、彼女がシチュエーションを全無視でいつものように笑っている。

 自分は今、自らが部屋に招きいれた客人により、現在進行形でベッドに押し倒されていた。



***



「今日、部屋に女の子を呼んでいるだと!?」

 あまりの驚きように語弊があっただろうかと考えたが、特に問題なかったように感じたのでジュースを啜りながらコクリと頷く。今日のイチゴミルクも濃厚で美味だ。桐条先輩なら「ブリリアント!」と褒め称えていたところだろう。ビニールハウスの発展により今いち旬がいつなのか判断がつかないが、味に問題ないのなら良しとする。一気に啜る無粋な真似はせず、ちびちびと楽しむ。

「何で、お前、そんなに平然としてられるの!?」

 なのに、友近は動じない態度が気に入らないらしく、わざと単語を強調し、台詞を区切りながら問いただしてくる。何処に問題があるのか、さっぱり理解出来ない。
 添えていた手の圧力に耐えられなくなり、紙パックがぺこんとへこむ。育ててくれた農家さんに感謝しながら、最後の一滴まで啜り終えたところでちゅぽんとストローから口を離す。口内に残る甘く、爽やかな酸味。それらをまろやかに包み込むミルクの濃厚さを最後まで味わい尽くしながら、喚く友近を見上げた。

「……そんなに今日、用事があるのが不満?」

 別に今日でなくとも、明日でも明後日でも明々後日でも言ってさえくれれば、予定を空け、用事を共にすることは出来る。それとも今日限定の火急の用なのか。まるで、相手のご機嫌麗しい特定の日に伺わないと、特定アイテムをゲットできない何処かの依頼を彷彿させる。
 首を傾げると友近は「いやいやいや」とかぶりを振った。

「そーじゃなくてっ! って、あー、お前ってばこれでも主席くんだから、会話していると俺の思考回路が欠如してんのか、頭イカれてんのかって思っちまうんだけど、そーじゃねぇんだよな。おいっ、コイツ専用の翻訳機――順平くーんっ!!」
「はいはーい、呼ばれればいつでも登場しますよ、順平くんでーす!」

 絶対に話を理解していない順平が、教室の片隅からシュシュシュの効果音宜しく駆け寄り、野球帽のツバを持ちながら白い歯を見せ、ぐっと親指を立てる。本人曰く、決めポーズらしい。
 頬がぶつかりそうな勢いで迫ってきたので、イチゴミルクの空パックですかさずガードした。順平の匂いよりイチゴミルクの芳しい香りに包み込まれたいと願うのは万人共通に違いない。

「なになになに。有里くん、ついに彼女を部屋に招くところまで進展を果たしたのですかっ!?」

 自分の台詞は聞こえずとも、友近の台詞から全てを推測したようだ。本当に、順平はこういう時だけ頭が働く。岳羽がこの場に居たらそれはもう辛辣に当たられていたことだろう。インタビュアーのようにエアマイクを掲げる順平をウザいと感じつつもジリジリと近づく頬を押し返すのが精一杯で、最終的におざなりに答える羽目となった。

「……ただ遊びに来るだけだよ」

 現に彼女――エリザベスは「あなたの部屋に出かけたい」といつもの調子だ。もっと極端な言い方をすれば『依頼』のひとつにすぎない。だからこそ「いいよ」と二つ返事で了承した。
 ただ一点、気になるとすれば今まで共に廻った場所にあった噴水や賽銭箱、滑り台やら購買、教壇といったエリザベスの好奇心を擽る面白いものは無いよと付け加えた際、エリザベスは「構いません」と食い下がったことぐらいだろうか。

「けど、二人っきりなんだろ? つか、この前、噴水できゃっきゃしていたあの子なんだろっ?」
「噴水できゃっきゃだとっ!? 俺がエミ……じゃなくて、用事があった時にそんなことしてやがったのかっ!」
「偶然居合わせたゆかりっちに言い訳すんの大変だったんだからなー。聞く権利はあるよな、な、な?」

 そもそも岳羽に言い訳をせねばならないようなことはしていない。
 だが、順平は当然と言わんばかりの態度で押し迫ってくる。別に、相手がエリザベスであることは教えても構わなかったが何となく解せない。野郎の間に挟み込まれ、揉まれたおされたイチゴパックで更に、順平の顔を強く押し返す。

「……誰を部屋に招こうと関係ない。現に、(寮にシャドウが襲ってきたとき、岳羽が)許可も取らずドアを開けて入ってきたこともあったし、(風邪で寝込んでいたとき)気がついたら(アイギスが)部屋の中で行儀よく体育座りしていたことも――」

 ――あるし。
 と、言う言葉は友近と順平、両者の叫び声に見事に押し潰された。

「え、なになになになになに。彼女に押しかけられたことあんの!? てか、部屋の中に居たっておまっ、強制侵入するとか可愛い顔して押しかけ女房気取り!?」
「彼女って、お前を押し倒すぐらい肉食なのっ!? エミリーに似て……じゃなかった、肉食ってことはTO・SHI・U・E・お姉さまなのかっ!? で、可愛い系!?」

 しまった、主語を入れ忘れた。極力、言葉を削ってしまう常時・省エネモードの自分が恨めしい。
 順平がオーバーリアクションにはしり身体が離れたことを好機に、口先でストローを銜え取ると、指先で器用に紙パックを開きながら後ずさる。マイ机にかけてあったカバンを取ることも忘れない。流石に二人を相手にするのは面倒だ。内容もどうでもよい。先手必勝――逃げよう。

「あ、ちょ、待てよ、おいっ!!」
「水くさいぞ、有里っ!! エミリーのこと相談した時に一言くらい言ってくれればっ!!」
「つか、エミリーって誰よっ!?」

 不意をつかれ、追いかけるタイミングを逃した二人の様子を背中越しに感じほくそえむ。イヤホンを耳にかける手間を惜しんで、ゴミ箱にストローをプッとホールインワンさせ、平べったく畳んだイチゴミルクを追随させると、ささっと教室を後にした。



***



 で、今に至る。
 どういうことなのだろう。何処かで聞いたシチュエーションを彷彿させる状況に陥ってはいないだろうか。考えすぎか。いやいや、もう一度冷静になって直近の台詞を思い出してみてはどうだろうか。

「もし貴方さえよろしければ……お手引きを……頂きたいのです」

 らしくなく口ごもりながら、手を握ってきたではないか。無茶苦茶、フラグが立っていたようだ。しかもその問いに「分かった」と即時に答えた自分が居たのだから言い訳のしようがない。
 だが、やはりおかしい。背中に感じる慣れたシーツの柔らかさ、顔の横に置かれた青色の手袋、窓から零れ落ちる明るい光りをその身体で遮り、変わらず仄かな笑みを浮かべている彼女――エリザベス。
 何故、自分が押し倒される形なのだろう。お手引きをと望んだばかりではないか。だが、至極冷静にこの状況を分析し、焦りもドキドキもしない自分も不思議と居る。この時ばかりは鋼の心臓を持つ己を少しばかり呪ってやりたかった。

「……記憶が曖昧なんだけど、不甲斐なかった?」

 放課後のやり取りを回顧している時間で、任せてられないと焦れてしまったのだろうか。エリザベスには変にアグレッシブなところがあるので気を遣わせてしまったのかもしれない。

「いえ。ですが、貴方が躊躇されたように見えましたのでアシストを」

 そうか、躊躇したのか。そういえば少ない露出部分である肩に触れようとして一瞬、戸惑ったかもしれない。ノースリーブのワンピースから出たエリザベスの肩は女の子のそれらしく、細く華奢だ。強く掴んだら、水面に映る白い月のように淡く儚く消えていってしまいそうで――思い出して、ほんの薄皮一枚で触れた白く柔らかい感触を思い出し、指先がピリッと痛んだ。

「……本当にいいの?」

 本来ならば押し倒すべき筈なのに、押し倒されているという不甲斐ない間抜けな格好のまま、最後に念を押すように確認すると、先にも見せた口を尖らせながらも恥らう表情を浮かべる。

「何度も同じ事は言いません」

 言い、一度枕元についていた手を離し、膝立ちになったエリザベスはおもむろに手袋を外した。まったく日に焼けていない透き通る白い肌が眼前に晒される。普通の男なら生唾を飲み込んでいたところだろう。

「言ったが吉日、有言実行にございます」

 ゴトンの質量のある何かが床に落ちた音が響く。腿下から漆黒のタイツとなった足が割り込むように絡みついたかと思うと、バサッと落ちた何かに視界が埋め尽くされた。

「失礼しました」

 空気が揺れ、再び視界が開けた時、あどけなさを増したドアップが待ち構えており、睫がピクリと反応するくらいの動揺はあった。クスリと笑った、血色良いピンク色の唇。場が場だからか、艶も含んでいる。珍しい表情にいつもとは聊か違う感情が芽生えたが、つまみあげられた青色の帽子で一瞬、隠されている間にいつもの緩やかな弧に戻っていた。残念だ。ブーツ同様、衣擦れに似たささやかな音と共に、帽子が床に落とされた。

 今までエリザベス以外の、いわゆる他の女の子と似たような状況になったかと問われればイエスと答える。だが、どの子とも踏み込んだ関係にはならなかった。元々、受動の塊なのだ。やってと言われればやるし、やらないでと言われればやらない。決断しろと言われれば決断する――簡単な生き方をしてきた。
 無遠慮に土足でパーソナルスペースに踏み込むようなことをしてくる不作法者が居れば、やんわり断るぐらいのことはしていた。だが、どの子も賢く、好意を惜しみなく晒すことはしても内側に入り込もうとはしなかった。
 好意を示してきた女の子はどの子も勘が鋭く、引き際も見事なものだった。想いが双方向のものではないと粛々と受け止めていた。

 分かった上で「どうでもいい」と思っていた自分は酷く、愚かな男だ。けど、恐ろしく興味が無い。言うなれば、己の特性であり、長所でもあるワイルド能力――愚者のアルカナが擁する規格外のペルソナ能力が開花した起因でもあるのかもしれない。
 切りだった崖に気づくことなく、上を向いて歩き続けるくらいの変わり者なのだ。同年代の、思春期らしく浮かれる同級生たちのようになれないのも当然……なのかもしれない。たぶん、こういうトコロが順平の気に障るのだろうなと、ふと頭の片隅に浮かんでうたかたの飛沫のように消えた。
 淡白なのだろうか。少し違う気もする。けど、ことエリザベスに関しては色々と違った。エリザベスは破天荒な上に能動的だし、微々たるものと言えど「どうにかなってもいいかな」と思うぐらいには懐柔されていた。どちらも言わば、はぐれ者だ。だからこそ、ひとつになりえるかもしれないと淡い期待を抱いたのかもしれない。
 だが、良い意味でも悪い意味でも期待を裏切らない。それがエリザベスだった。

「……エリザベス」
「何でございましょう」

 ……何をしている?
 聞こうとして止めた。きっと、これがエリザベスにとっての『殿方の私室に上がりこむ意味』なのだろう。
 エリザベスに正攻法は通じない。試しに、別の角度から攻めてみた。

「……制服のままなんだけど」

 たぶん、自分が考えていたものをするためにはこのままでは致せない筈だ。だが、エリザベスは頬をぱっと赤らめた。

「普段纏っている制服を着たままの方が、より貴方を感じられる状態で、より密着し合えると思うのですが」

 そう来たか。何となく察した。
 恐らくエリザベスは表面的な言葉でしか、意味を理解していない。ほっとしたような、残念なような……実に複雑な心境である。

「……そっか」

 ここで少しでも残念な表情を浮かべられれば、少しは思春期を患えただろうかと不毛なことを考えたが。あぁ、この時点で及第点以下か。普通の男の子なら、我慢ならんと押し倒し返している頃合だ。自分は自分なのだから仕方あるまい。
 エリザベスの外気に曝け出され冷えてしまった手を取ると、わざとベッドについていた手のバランスを崩れさせ、受け止める形でぎゅっと抱き締める。これが己の、精一杯の手法。





 エリザベスはいわゆる男女の営みを『密着に触れ合い、熱を高め合う行為』と解釈したようだ。
 月並みな言葉となるが大体、合っている。
 大体、あって、いるのだ。
 ……。
 …………。
 だが、それをされる方は堪ったものではない。今まで「どうでもいい」と順平や友近たちを一蹴りしてきた言葉が、ブーメランとなって己の顔面めがけて返ってくるようだった。

「やはり男性の方が体温が高いのですね」

 いつものような快活さは鳴りを潜め、小さく囁くように呟かれたエリザベスの言葉が甘く耳を擽った。押し倒される形で抱き止めた身体は今はすぐ隣にあり、同じ部位が重なり合う形で向かいあっている。
 抱き締めあうことを『溶け合う』と表現した人は誰だったか。異なる命を持つ人間だから体温が違うのは至極当然のこと。一般から外れない形で若干、体温の高かった己に触れることでエリザベスに熱が伝わる。
 奪われているのではない、分け与えているのだ。自分のものだった熱を内側に注ぎ込むことで、やがて彼女の体温となる既視感にくらくらと眩暈を感じる。

「こうして言葉なく触れ合うことで想いを通じ合わせる……確かに親密な仲では無いと出来ない行為」

 心臓の音色が高鳴ったような気がしたが、密着し合っている状態ではどちらの鼓動なのかも分からない。重なり合い、ドクンドクンと不規則に揺れる心音。初めて抱いた女の子の――エリザベスの香りは柔らかで、優しい、白木蓮の香りがした。
 柔らかな調べのように漂う芳香のなか、帽子のないエリザベスはより幼く見えた。心なしかぷっくりとしたピンク色の唇もつややかに見え、頬の朱色も濃かった。
 勘弁してくれ――思うのと同時に、少しだけ熱を取り戻した指先に、静電気により顔に張り付いていた前髪がさらりとかきあげられた。パチンとジオが弾けなかったところを見ると、どうやらエリザベスは帯電体質ではないらしい。

「いつもこちらの目は隠されていますね」
「……隠していない、たまたま」
「いえ、隠されたままの方が宜しいかと思います……」

 ジッと穢れ無き眼が双眸を見つめていたかと思うと、めずらしくきゅっと口つむぐエリザベス。

「その……貴方に見つめられると、こう胸がきゅっと締められると言いますか、苦しくなると言いますか。私だけならまだしも、他の方にもそうされるのは慎んでいただけると……」

 そこまで言い、はっとした様子のエリザベスだったが言ってしまったからにはもう遅い。いつもは覆われ、曝け出されることのない額が外気に晒され、冷えていくのを感じながら見つめ返すと、観念したようだった。

「わたくし、貴方のペルソナ能力が強靭になる度にいつも複雑に思っておりました」
「……なんで?」
「ペルソナ能力は他の方と絆を深める度にひとつ、またひとつとより強固なものになっていくから……です」

 言われ、しばし意味を図りかねたが、ぐるぐると考えている内にじわりじわりと浸透してきて理解する。顔の体温が一度だけ上昇したような気がした。

「その、他の女(かた)とも同じようにこうされていたのかと思うと……ココが子供の落書きみたいにぐしゃぐしゃになるといいますか」

 いつもの毅然としたエリザベスは此処に居ない。言い淀み、絡み合っていた指先を解き、少しだけ身体を離して添えた場所は胸の中心。言われて、自身の胸中も同じように掻き乱された気分だ。言外に嫉妬しているのだと言われているのも同等だったのだから。

「……エリザベス」

 よもや、そんなことを言われるとは。思わず、口を押さえる。柄にもなく、変な声が出そうだ。
 ただ、意外に思ったのと同時に、心外にも感じた。だが、自分の言葉が圧倒的に足りないことも十分、自覚している。だからこそ、これからのことを必ず伝えねば。そう、思った。

「……これでも結構、我慢している」

 女以上に男というものは実に面倒な生き物で、矜持(プライド)という名目だけは立派なものに振り回され、やせ我慢する馬鹿で哀れな生き物なんだ。言葉少なくそれだけ伝えると、原点に回帰する。
 エリザベスは『言葉なく触れ合うことで想いを通じ合わせる』と言った。だから――、

「……まだ触れ合ってない場所があるよね?」

 ――と、一言、聞くだけ良かったのだ。

「……もし、良ければ……だけど」

 身体を構成する中で一番、感度が強く、感触が柔らかいそこはまだ誰にもあげていないのだと空気を震わして伝えると、胸に再びふくよかな胸が押し付けられる。
 一瞬、見えた唇の形を整え、目を瞠るエリザベスの表情は稀に見るもので、可愛かった。今、見ることは到底、叶わないけれども。


 ――エリザベスと長い間、二人きりで過ごした。








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