抑揚の無い淡々とした声が、混沌としたフロアに凛と響く。

「デッキ、オープン」

 正味何百ページもあるペルソナ全書を片手で軽々と持ち、鮮やかな手さばきでカードをドローした指先が空間を切り裂く。現れたのは小柄な身体、蝶と見間違う程の薄いきらびやかな羽ですらりと伸びた肢体を支えるピクシー。あ、と思った時にはもう遅かった。
 闇夜を切り裂く朝日のように彼女を中心に小さな光が生まれ、見る見る間に大きく膨らむ。やがて光の粒子となり弾け飛ぶと、白い肌を僅かばかりに傷つけていた跡がすぅっと消えた。

「っ――!」

 先制攻撃を仕掛けようとした足をぐっと踏み留め、振りかざそうとした剣を持ち直す。動いた拍子に口内から生暖かい液体が滑り落ちてきたので、制服の裾でぐっと拭った。はぁはぁとらしくなく途切れる呼吸音がくぐもり、耳に障る。
 出来るならば「降参」と両手を上げて、その場にパタンと倒れてしまいたかった。それ程までにダルかったし、喉も渇いたし、疲れた。いや、疲れたなんて生易しいものじゃない。満身創痍と言っても過言では無かった。
 だが――気を確かにし、柄を持つ手をぎゅっと握り直す。負けるのは癪だ。

「――行くよ、エリザベス」

 最初にエリザベスは「ご遠慮なさらず、殺すつもりで」と言った。ならば、それに応えるのみ。血反吐をフロアに吐き捨て、剣先を構え、まっすぐ見据える。かつては無関心を、かつては加護欲を、かつては愛情を――そして今は強い意思だけをのせて、エリザベスを見つめる。
 負けないよ。唯一、大事な人と決め、抱いた人に負ける訳にはいかない。

 もう、こんな方法でしか想いを募り、詠い、伝えることしか許されない。
 己の一存だけで、生きることを許されない咎人となった。

 いつも聞いていた音楽のテンポに合わせて足を蹴り飛ばし、吼え、エリザベスの胸元に斬り込む。瞳の中心に映った、緩やかに弧を描いていたエリザベスの口元がズームアップされ、心なしかほんの僅か上がったような気がした。



***



 三月五日(金)―― 一つ上の先輩方が学び舎を旅立つその日、いつもより少し早くに目覚めた。二度寝しようか迷ったが、カーテンの隙間から零れ落ちた春の光に誘われ、黙々と着慣れたワイシャツに袖を通す。
 朝食も食べず、ふらりと駅に向かう。真上には円状にぽっかりと開いた雲と、高い空があった。まるで空に向かって、銃が発砲された後のカタチのようだ。燦々と降り注ぐ光が眩しい。指で傘を作ると丁度、ホームにモノレールが滑り込んできたのが見えたので、悠々と乗った。
 特有の振動に揺さぶられながら窓の外を見やる。いつもと何ら変わらない風景。我らが月光館学園の校舎の姿がちらりと見えた。

 が、不意に。
 青空が怪しげな闇色に染まり、大きな満月に突き刺さるように、緑色に淡く光るあべこべな城が聳え立つ残像が過ぎる。

 残像、だ……変わらぬ明るい風景がガタンと揺れる。朝を食べなかったから、立ちくらみでもしたのだろう。腰の辺りに伸ばしかけた手が、何かを握り取ろうとした形になっていた。
 モノレールが減速する。ふと思い立ち、降りたのはいつもより一駅前――学園最寄駅の一つ前だった。ゆっくりと自分の足で学校に向かおうかな、そんな気分だった。馴染みのイヤホンを耳にかけ、指先の感触だけでプレイヤーを再生する。朝の空気が音楽に彩られ、自然とテンポに沿った歩となる。
 単調な灰色の大通りから一本向こう側へと踏み込む。イヤホンさえ通り越したアスファルトを削るタイヤの音が消え、お気に入りの調べがゆっくりと身体中に染み込むように流れてくる。春を告げるうららかな光が並木通りを照らし、感慨深く立ち止まる。
 と、そこでひとりの不思議な少女と出会った。

「何と、みやびやかな花でございましょう」

 音楽に支配されていた世界に、まっすぐ響いた声。
 緩慢に振り向くと、この界隈では見慣れぬ装束に身を包んだ同じ年頃の女の子が両手を広げて、天を仰いでた。台詞だけを聞くと落ち着きを払ったように伺えるが、実際はきゃっきゃと効果音がつきそうなくらいに内心、はしゃいでいるように見えたのは気のせい……だろうか。
 温暖化の影響により、いちじるしく上がった気温に多大なる勘違いをし、既に八分咲きとなってしまった桜色の中で、異彩を放つ蒼色がとても印象的だった。おもむろにイヤフンを外し、彼女の方へと歩みを寄せる。
 順平――いつから親しく『順平』と呼ぶようになったのだっけ。どうにも思い出せない――辺りがこの光景を見たら「いつもならどんなに可愛い子が声をかけてきても軽くスルーなのに!?」と大袈裟に驚いてみせるトコロなのかもしれない。それ程までにこの行動は、自分にとって範疇外のことだった。

「……桜を見るのは初めて?」

 ましてや、声をかけるなど。
 さぁっと吹き抜けた春風にさらわれそうになった帽子を抑えながら、花と同じ色の唇が「はい」と笑った。

「この世界は、本当にたくさんの美しいもので溢れているのですね……失礼します」

 ひらりひらりと落ちる花びらを受け止めようとして邪魔だったのか、少々絵的に不釣合いだった分厚い本を許可無くこちらの手に――って、重っ! 手で支えるには耐え切れず、歯を食いしばりながらも近くにあったベンチに本ごと転がり込む。老朽化した木材がギギィと悲鳴を上げたが、やがてはシンと静まり返る。良かった、お笑いコントのように底板が抜けなくて。
 ザラリとした感触が指先を擽る。使い込まれた皮の感触だ。本には『Le Grimoire de Coeur』の文字と六芒星が刻まれていた。英語に関しては『天才』と謳われた学力だが、他の言語に関しては履修していないため読むことは叶わない。
 だが、昔やったゲームで『Grimoire』――グリモアという単語だけは聞きかじったことがある。確か、魔法書とか魔術書の類だったと記憶している。だから本にしては重厚な作りなのかもしれない。四隅と背表紙を守るように金具がついていた。
 使い込みを示すように所々、引っかいたような傷跡もある。ページ数も大分あるようだし、この本の角で叩かれたら相当痛いだろうと想像したところでチリッと頭が痛み、鼓動がざわめくのを感じた。

 ザッ、ザッ……と砂嵐の向こうで、この本を片腕に抱えたまま重い斬撃を食らわしてきた少女の姿がノイズ混じりに映る。その少女に、剣を立てることでカウンターしたのは……だ、れだ?

 何だろう、この映像。夢……? 夢にしてはリアルすぎる。ここ一年の記憶が朧げだと気づいたのはいつのことだったか。
 両親を不慮の事故で亡くしてから各地に居る親戚の家を転々とした。喜ばれることは無かったが、存在が希薄だったこともあり、邪険にされることも無かった。頼れる親戚がすべて亡くなり、後見人は見つかったものの一緒に住むことが難しいと言われ、数年前に設立された付属寮のある高校へ――かつて住んでいたこの土地に戻ってきた。記憶が曖昧なのは、今までとそう変わらない普通の一年を過ごしたから。ずっと、そう思っていた。

「ご両親がいらっしゃらない? そうなの、可哀想にね」

 幼い頃から、境遇を話すと決まって同じ言葉が返ってきた。誰もが同情した。上っ面だけで同情した。何をしても、良いことをしても、悪いことをしても、常に二言目に両親の話題がついてまわった。
 可哀想って何なんだろうって思っていた。今まで目の前に居た人が突然、居なくなった。理由が理解できなかった。哀しいと感じる余裕すら無かった。受け止める時間さえ、与えられなかった。
 いつしか話すことを止めた。話したくなっても上着をぎゅっと掴んで、耐えた。ぎゅっとしていると「どうしたの?」と聞かれることも多くなったので、手をズボンのポケットに押し込むようになったのもこの頃のことだ。
 この人たちにとって死んでしまった『両親』は『どうでもいい』存在。だから軽々しく『可哀想』などと口にするのだ。数年と言えど、自分を大事に育ててくれた両親は他人の言葉でふわっと吹き飛ばされる程、軽い存在じゃない。
 どうでもいい――いつしか、全てのことに対して心を閉じ、そう思うようになった。雑音が耳障りで、親からの形見であるMDプレイヤーにイヤホンを繋いで、耳に蓋をするのが当たり前になった。
 年月が経つにつれ、MDプレイヤーは壊れてしまったけれど、抽出しておいた曲をデータ化し、新しく購入した小型で筒状のMP3プレイヤーに移し変えた。ストラップをつけて常に持ち歩けるようにした。耐用年数を過ぎても壊れることなく音楽を流し続けてくれた形見のイヤホンに接続して、置いておけるように。
 けれど、そのイヤホンも去年の十一月頃に壊れてしまった。どうして……壊れたのだったっけ。やはり思い出せない。思考を巡らせようとすると意識が遠のく。最近、疲れているのか身体が妙にだるかった。自分の意思で動けているのか、とても怪しい。まるで天井から糸を吊るされ、操られるマリオネットの気分だった。

 組んだ手の上に額をつける。下に落ちた視界、広がる敷きレンガの目地色。木から舞い落ちた桜の花びらが風に身をゆだね、優雅にくるりくるりと踊っていた。
 無数の飛沫の中、誰かの口元がゆるく弧を描き、桜色に染まる頬――幻の画がポツリとまた浮かぶ。

「体調が優れないようですね……」

 はっと顔を上げると、似た口元を象った見知らぬ筈の少女がこちらを覗きこんでいた。その表情は、流れてきた大きな白雲に隠された低い太陽と同様に、翳りを見せる。何故か、酷く残念だと訴えるように、胸が締め付けられた。

「……最近、調子が優れなくて。季節の変わり目だからかな。キミは凄く楽しそうにしているね。見ているこちらの気持ちも晴れやかになる」

 言っていて、誰かの軽薄な口調のようだとくくっと喉の奥で笑ってしまった。……あぁ、また既視感。思い出したい、思い出せない、思い出してはいけない。
 感じるたびに、ここ一年の記憶は『どうでもいい』ものではなかったんじゃないか、と。思うけれど、どうにもならない。なるようにしか、ならないのだ。
 ただ、せめてもと。彼女には変わらず笑っていて貰いたくて、語録少ない引き出しの数々を開き、必死に言葉を紡いだ。けれど彼女は、

「私が外界との接点を持つようになったのは……つい、この間のことですから」

 何かを思い出すようにそう言うと、視線をそっと横へとずらした。儚く崩れた横顔は、昼間に浮かぶ白い月のように水色の空へと溶け落ちていってしまいそうだった。
 ずっと、病気を患っていた……とかなのだろうか。裏付けるように言動は浮世離れしているし、肌も驚く程の透明感に溢れている。無自覚に酷いことを言ってしまったのかもしれない。
 だが、先の快活な様子からは微塵にも感じられなかった。無責任なことに、今はこうして晴れやかな明るい空の下で、桜吹雪と戯れられるから大丈夫だよね? とも。
 怖かった? けど、もう一度、外の世界に――頑なな態度を崩して、こちらの世界に訪れてみる気になれたんだよね? そんな顔はしないで。
 何があっても――笑っていて欲しかった。

「……泣いて、おりません」
「そうだね……」

 不意に、伸ばしていた指先が涙をぬぐうように彼女の頬に触れていた。しっとりとやさしく馴染む感触に、桜の花びらがはらり。

「貴方は……本当に、ひどい人……」

 はらり、はらり。
 花びらが落涙のように落ちる。薄銀色の瞼を落とし、頬に触れていた指先を蒼の手袋が包み込む。シルクの馴染む心地良さを感じながら「これ、外していいかな」と問いかけると「お好きにどうぞ」と彼女はようやく笑った。





「何か……用事があったんじゃないの?」

 そろそろ学校に行かないと間に合わなくなるからと名残惜しく離した素の指先は、再び絡め取られた。たった二、三本でしか繋がっていない生身の指先をそのままに桜散る小道を二人、並んで歩む。
 彼女の肩にはケープがかけられていた。手袋を外したところ肩から剥き出しになってしまい、寒そうだったので上着を貸そうとしたら「これを」と言われた。

「……着ないの?」

 問いかけたら、

「蝶々結びが出来ないのです」

 と、真顔で答えられてしまった。白のぽんぽんがついた紐をきゅっと胸元で蝶々結びしてあげると彼女の顔は更に綻んだ。

 閑静な住宅街の合い間を縫う、季節により移り変わる美しい路地だった。春は今時期のように桜並木に、夏は鮮やかな葉色の緑に、秋は金色のイチョウに染まり、冬はひっそり雪化粧。
 色違いのレンガで造られた道が、細く開かれた窓から流れた朝食の芳しい香りに彩られる。たんたんたんと根野菜を切る包丁の軽快な音が聞こえ、確かな人の気配を感じさせる。世界は閉じられていない。けれど不思議なことに、通りには自分たち以外の姿形は誰ひとりとして居なかった。

「鍵を、返して頂こうと思っておりましたが……もう、いいのです」
「……鍵?」
「えぇ、大切な鍵を」

 一歩、一歩。今共にある時間を大切にするよう、小路の真ん中をゆっくりと歩く。
 左胸辺りを熱く感じ、制服の上から触ると硬質な感触があたった。結んだ指先をそのままに片手で取り出す。淡い光を放つクラシカルな鍵と、これは……しおりだろうか。白く清楚な花が彫り細工された薄い白銀色の板に、ちょこんとあしらわれたピンク色のリボン。春風に揺れ、優しい香りが鼻腔を擽る。

「そのまま、お持ちください」
「……いいの?」
「えぇ、私が主と姉さまに咎められれば良いだけのこと」

 話半分も理解出来ていない。関わらず、質問を重ねなかった。本能と言われればそうだし、それよりも何よりもそうするのが当たり前だった気がした。
 また違う家の窓から囃し立てる子供達の声と、脳天から下顎へと貫く母親と思わしき女性の声が響き落ちた。どちらとも無く視線が合い、声無く笑う。今日という日常が、いつもと何ら変わり無い一日だと知らせる。

「寒くない?」
「……いいえ」

 拳三つ分開いていた距離が一個分に縮まり、鳥が囀った次の瞬間にはなくなる。人と触れ合うのってこんなに緊張したっけ。左の指先が熱い。何度か、確かめるように握り返されるしたたかな強さを返すように。
 自分も何度となく、ぎゅっと彼女の指先を握り返した。





 結局、彼女が誰だったのかを思い出したのは、もう二度と彼女と出会えないと自覚したのとほぼ同時のことだった。

「ありがとう……本当に……疲れたでしょう?」

 肌を擽る風はまだ少し冷たい。逆風を駆け抜け、大きな翼を広げて飛んでいった渡り鳥が、恋しい蒼色を持つ空を見ていた視線を遮る。

「今はゆっくり休んで……わたしはずっと、ここに居るから……」

 耳慣れた声と足音たちが聞こえる。
 全てが、顔も覚えていぬ母親が謳ってくれた子守唄のように聞こえる。

「みんなとも、すぐに会えるから……」

 優しく耳に溶ける、機械仕掛けの少女――アイギスの声。網膜に焼き付く、うららかな陽射し。手で傘を作る力は最早、無い。光が眩しい……目を閉じたほうがいいだろうか。
 目を閉じたら、彼女に会えるだろうか。死闘を交えてでももう一度、外の世界で出会いたいと願った彼女、に。脳裏に焼きついた数々の記憶を見ることが……できるだろうか――なんて。

 は、と口の形だけで笑う。
 重たくて、閉じたくないのに徐々に落ちてくる瞼の裏で。今更になって走馬灯が流れてくる。灯篭に描かれた絵みたいに川を下り、たゆたって、ゆっくりと海へと流れてゆくように。
 土下座したって赦して貰えない。「ごめんね」と謝罪することさえ赦されない。どれもこれも、今となっては叶わない儚い、願い。

「安心……て。いつでも……で、…………守るから」

 機能を果たさなくなった耳が、アイギスの最期の言葉を途切れ途切れに拾う。
 眩しい空の蒼だけを見ていたくて、身体中の力を奪ってでも瞳を開き……想う。

 幾ら「他の女に膝枕されながら思い出すなんて、オトトイきやがれでございます」と罵ってくれたっていい。
 口を尖らせて「やはり何股もされて保険をかけていやがった尻軽男でございましたね」と毒づいてくれたっていい。

 最期にキミの笑顔が見たかっただなんて、贅沢なことは言わない。
 だから、どんな形でも……いいから。思い出して欲しい、こんな馬鹿で哀れな男が居た記憶の日々を。出来ればキミにしか見せなかった自分の姿を――時折、想い返して欲しいな、だなんて。

 唯一、開いていられる瞳の奥に眩しい蒼い空を見つめながら。今、僕は――ただ、ひたすらに、キミに願っているよ。








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