そよそよと吹く風、潮の匂いを感じる。
 カゥカゥカゥと呼ぶカモメの鳴き声に促され、閉じていた瞳を開くと、真っ白な羽を持つ蝶が丁度、視界を過ぎった。追随するとひらひらと羽をはためかせ、ピンク色の花弁の中へと降り立つ。お食事タイムか。エネミー判定されても致し方ない僕の存在などお構いなしのようだ。
 至近で、ゴロリと転がり、頬杖をついてしばし眺める。蜜を吸おうと蝶の口が触覚のように伸びた時、影が差した。

「手が止まっているようですが」

 蒼い空を背景に誰かの口元が朗らかに笑う。
 逆光に眼が眩みかけたが、しぱしぱと瞬かせ、意識を覚醒させる。黒く塗りつぶされた顔が、段々と伺えるようになる。
 水辺を駆け抜けてきた風にショートボブの髪をさらりと流し、珍しい色合いの瞳を細める女の子。礼儀正しい敬語で話しかけてきていたのはクラスメイトの一人だった。

「……暑くて」
「まだ、五月です」

 でも、暑いんだ。
 片手をついて、よっと起き上がる。途端、むわっとした陽気が身体を包み込んだ。ふと視線を落とす、先まで居た蝶はもう居ない。

「帽子だけじゃ足りない」

 したたる汗をTシャツで拭おうと腕を上げたが、一回り大きいシャツは脇の方へと縮こまっていってしまった。そりゃそうなる。分かってはいたが何となく解せない。
 色違いのピンク色Tシャツから覗く腕は、更に細く白かった。ジーンズ製のオーバーオールの肩紐を片方だけ外して着崩す姿が、ひどく似合っている。突然、女の子がくるりとターンを決めた。踊っているのかと思いきや、青い鱗粉を散らす蝶がしなやかに伸びた腕に絡みつくように飛んでいた。
 薄ピンク色の爪先に羽を休めるため、ゆっくりと舞い降りる蝶。人間馴れしすぎている上に、女の子の方がいいとか現金すぎる。帽子が落ちないように、きゃっきゃと蝶と戯れる姿をしばし観賞する。
 ペアルックみたいに同じ格好をしているのに、僕だけが泥まみれになって一輪車を運ぶ土木作業員のようだ。やがて双方満足したのか、蝶は空へ、クラスメイトはこちらに手を伸ばしながら、ふっと笑った。

「逆さに被るからです」

 えいっと逆さ帽子の穴から出ていた前髪を、同じ指先でピンッと弾く。

「塗料がつく。やめ…………なに?」
「いえ。お顔をまともに拝見するのは初めてでしたから」

 続けざまに急に顔を覗き込まれ、戸惑う。
 べったりと汗ではりつくから、前髪を帽子で抑えるのは嫌だったんだ。そっと後退し、空を見上げる。眩しすぎる太陽が曝け出された左目を焼いた。



 このクラスメイトと、文化祭の準備をしている。
 去年の文化祭は台風の直撃により、残念ながら中止の運びとなった。そもそも時期が悪いのではと生徒会主体で見直され、結果――六月初旬開催の運びとなった。
 しかし、今度はそのために進級早々、準備をする羽目となってしまっている。梅雨時期に重ならないようにと配慮したことが更なる裏目となった。最悪なことに、クラス替えをしたばかりなので、馴染みの浅いクラスメイトらと統率が取りにくい状態で行わねばならない。企画を決めるためのLHR(ロングホームルーム)は挙手・発言共にゼロという葬式状態のところから始まり、とにかくアイデアを自由に出し合う型式にしても一向に改善されず、文化祭実行委員がほとほと困った様子で手を焼いていた。

「も、もう……当クラスの企画は休憩室でいいかな?」

 時間も差し迫り、たどたどしく眼鏡を直し始めた実行委員により独断で決まり始めた頃、悪い空気を払拭するようにしゅっぱっと手を上げたのが、下りのクラスメイトで。

「私、一度、大きなキャンバスに絵を描いてみたかったのです!」

 ……それはタダの願望。
 彼女の後ろの席で小さく呟いた僕の言葉は、

「そう言えば目玉となるシンボルが校門前に欲しいって実行委員会で出ていたなぁ」
「それでよくね?」
「ちょっと面白そう」

 と、急に騒がしくなった他クラスメイトの喧騒に呑まれ、無きものにされた。
 他にめぼしい案も出ないし、延長戦を決め込むよりはとっとと帰りたい。
 面々の無責任な言葉と思惑により、まんま彼女の要望を満たす形で決定した事項は今こうして目の前にあり、何故かその周囲に他クラスメイトの姿は無かった。

「用事があるからパス。実は……彼女との念願の初・デートなんだよっ!」
「えぇっとぉ、ペンキで〜、服が〜、汚れるとかぁ〜、普通にイヤっしょ?」
「こんなことに構っている時間はないんだ。キミ達で好きなようにやってくれ」

 何十人も居るはずのクラスメイト達は皆、体の良い言い訳をしてトンズラこいてしまった。
 結果、残ったのは発案者の彼女と、逃げ遅れた僕の二人きり。非常に分かりやすい、ただ、それだけのことだった。



 ごわごわの軍手をはめ、深い海色のペンキ缶に刷毛を突っ込む。ぽっちょんと水面を魚が跳ねたような音がした。

「何で、敬語で話すの?」
「言葉を『ほん』で学んだからです」

 敬語しか知らないと言うことか。確か、ベベと入れ違いでやってきた留学生だったっけ。まぁ、どうでもいいか。キャンバスの前に脚立を立てる。
 実行委員が適当に発注したキャンバスは縦にしようが横にしようが、僕がおーきく両手を広げたところでまったく話にならないほどどでかく当然、教室に入らなかった。校庭もお祭り騒ぎの準備で大半が埋まっており、うちのクラスに割り当てられるスペースは無かった。
 途方に暮れていた所を、校門前にキーッと軽快なブレーキ音をたて、駆け付けた軽トラックのおやっさんに助けられた。運転席で親指を立て「イイ場所知っているよ!」と気前よく、海にほど近い河川敷の橋下まで運んでくれたのだ。
 彼女曰く「職人気質の頑固オヤジにございます。威勢のいい若いねーちゃん? ……は好きだ! と言われ、意気投合しました」だ、そうだ。画材店のオーナーらしい。言われなければ、大工の棟梁だと勘違いしていた。頭に鉢巻していたし。
 ともあれ、閉め切った部屋でやるより開放的だし、喚起の手間を気にせずにすむ。ペンキ特有の匂いに咽ることも、空気淀む室内で乾かすのに手間取ることも無くなり、一石二鳥だ。
 手際良く、隣に脚立をもう一つ立てる。安全確認してからの、よいしょで片手で器用に登り、もう片方の脚立の天板にガッコンゴットン音をたてていたペンキ缶を乗せた。

「……海の絵で、良かった?」

 キャンバスには目の前に広がるのとおんなじ、もうひとつの大海原。
 下絵を彼女に任せたら、とんでもない抽象画が生まれた。現代ピカソを拝命してあげても良いくらい素晴らしいものだった。言っておくが、皮肉だ。
 いっそのこと、そのまま採用してしまおうかと思ったが、そんな時に限ってサッと姿を現した調子良い実行委員の采配により、何故か僕が筆を取ることになった。絵心など皆無だ。面倒だったので、すぐ傍に見える果てない湾の光景を描いた。

「雄大な大海原で良いと思います。それに……蒼色は私の一番、好きな色です」

 潮風にさらわれかけた帽子を抑えながら、更に隣に立てた脚立の天板の上に跨いで座り、笑みを零すクラスメイトの彼女。
 よく言うよ。舌先を某有名製菓店のマスコットキャラみたいにペロリと出し、真っ先に黄色いペンキ缶を開いていたのは誰だったっけ?

「……キミはマイペースだね」

 上昇する海風に乗り、翼をはためかせることなく、海原を駆け巡るカモメのようだ。言葉なく示唆すると、小さく口を開いた彼女にジッと見つめられる。なに?

「Call me Beth」
「……え?」
「英語は堪能でいらっしゃいましたよね? 私の名前は「キミ」ではありません」
「……」

 おもむろに、ペンキ缶から刷毛を持ち上げる。塗料をたっぷりと吸い込み、ずっしりと重い。答えぬまま、キャンバスに乗せる。濃い青色が、木炭で描いた下地に沈んでいった。

「……ベス」
「はい」

 少し迷ったが結局、そう呼んだ。
 クラスメイトだが、本名を知らなかったのだ。

「やんわりと逃げられちゃったけど……いいの?」

 言わずもがな、他のクラスメイト達のことだ。
 乗るだけ乗って、最後は「発案者なのだから」と押し付けられたようなものだ。だが、彼女は相も変わらず、能天気者だった。

「貴方は残ってくださいましたから」

 あっけらかんと、当然のように答える。クスクスと可愛らしく笑う口元には黄色い塗料、こと、ペンキがべっとりとついていた。
 下描きの段階時、どうしても黄色を使いたそうにペンキ缶を抱え込んでいたので、右上に太陽を付け加えてあげたのだ。今それを、彼女は喜んで塗っている。少々、はみ出してしまっているのはご愛嬌だ。遠目から見るものだし、問題ないだろう。高校生にそこまでのクオリティを求めてはいけない。

「別に……暇だったから。他の人は受験勉強とかで忙しいんじゃないかな」

 実際、今年度で最高学年の立場だ。当然、見越しておかなければならない事実だろう。大学受験ともなれば将来に関わる。ピリピリしない方がおかしかった。

「貴方は受験勉強なさらないのですか?」
「する必要がない」
「大した自信の持ちようでいらっしゃいますね」
「……期待してくれる親も居ないから」

 たぷたぷの青ペンキをあらかじめ置いておいた空缶に、少量移し変える。同じ要領で白ペンキも加えた。青に沈んで行く白を見つめながら、適量を入れ終えたところで刷毛でぐちゃぐちゃにかき回す。
 僕の両親は、十年前に亡くなっていた。誰にも話したことのない事実だった。何故、このタイミングで話そうと思ったのだろう。疑問のまま、一面の青色に差し色を塗りつける。

「あら、なら……わたくしと同じですね。私には両親という存在は居りませんから」

 頬に、潮がベタつく。カーッと悲鳴を上げたカモメが突風に攫われていった。

「私には主と、姉さまと、愚弟しかおりません」

 刷毛を操る手は止まり、毛先に溜まったペンキが許容量を越え、雫のようにこぼれ落ちる。
 慌てて、キャンバスに押し付けながら刷毛を缶に戻した。

「キミには将来の夢とか、あるの?」
「ですから、キミではありません」
「……ゴメンナサイ」

 話を逸らしたのはワザとだ。
 胸のポケットから小さいミニ缶と、絵の具用の筆を取り出し、同じ要領でキャンバスに色を乗せる。船の筐体だ。鮮やかな赤はここだけなので慎重に塗り足す。

「将来の、夢……」
「僕の記憶だと成績、芳しくなかった筈だけど?」

 前の席だから、嫌でも目に入る。
 ピンと背筋を伸ばした姿勢良い体勢のまま、微動だにせず、つぶらな瞳で教壇をまっすぐ見つめた状態で――堂々と寝ているの、知っているよ。誘惑に負けて机に突っ伏してしまい、こめかみに筋を浮かべた鳥海先生に、チョークを投げつけられる順平とは違った意味で感心した。
 テストはテストで、選択肢系は鉛筆を転がして決めているようだし、筆記系はおもしろおかしく自身の解釈を記載しているようだ。テスト返却の際、何度となく珍回答として上げられている。何を考えているのか分からないともっぱらの評判の僕でさえ、あまりのオモシロ回答に口の端が歪むくらいのレベルだ。そんなんだから、下から数えた方が早い成績になってしまう。
 真面目にヤル気あるの? という戒めも少々、込めたつもりだ。だが、彼女の耳を通り抜ける頃には、皮肉も皮肉ではなくなってしまうらしい。

「私の夢は、大好きな人のお嫁さんになることです」

 手パンした彼女の横で、僕は脚立ごと後ろにひっくり返った。

「ですから……成績の方はとりあえず、横に捨て置いてあります」

 捨て置くな。
 打てば響く受け答えをしたかったが、弧を描いた口元に指先を添えるように刷毛を添えられてしまっては何も言えなくなってしまう。とびっきりの笑顔と言うヤツだ。
 風にそよぐ芝の毛先に刺されながら、僕も人の子だったのだなと他人事のように感じる。口がぽかんと開いていたのだろう。いつの間にやら降りて来ていた彼女に「差し上げます」と冷たい何かを押し込まれる。
 蕩けるミルクの芳醇。野球帽をかぶった少年とバッドのパッケージ――また、随分とシブい選定のアイスだ。



 完全に初夏の陽気だ。
 陽が傾き始めたと言うのに、半袖Tシャツ一枚で暑いとか尋常じゃない。風も生温い。湿気を過多に含んだ温風は快適さには繋がらないのだと、駆け抜けながら実感する。ペダルをこぐ足は当然、重々しい。人間様に代わり自転車が努力するように、車輪の廻る音だけが爽快だった。

「着替えなくて宜しかったのですか?」

 頭の上から零れ落ちた声だけは、風にもみ消されず耳に届いた。彼女の手首に引っ掛かる二人分の制服が入った紙袋が、ガサッと音をたてる。
 キャンバス類は行きと同じく、気前いいおやっさんに任せる手はずとなった。が、しかし当人達は「ペンキまみれのオマエさんたちまで乗せられねぇ」と乗車拒否された。僕とて、ビニール密封された上で運搬はされたくはない。
 目に入ったのは文化祭実行委員が置いていった一台の自転車だった。

「水でペンキは落ちない」

 サドルは汚れないようにビニールをおざなりにかぶせ、色まみれだった軍手は捨てた。ちなみに下りの文化祭実行員は途中、熱中症で搬送された。本当に無意味な人だった。折角、寸前で倒れることは免れたのに。無駄な延命だったようだ。作業前の出来事をふと回顧する。



「手を出してください、両手です。では、そのままその殿方の両目を塞いで頂けますか?」

 制服をペンキで汚す訳には行かない。かと言ってジャージでは心許無い。ポロニアンモールに新しく出来た古着屋で、安かったTシャツとジーンズ製のオーバーオールを買った。手伝わないならこれぐらい何とかしろと実行委員をちょっと脅して、経費で落としてもらった。
 その下りからのこの会話。意味が分からなかった。だが、訝しがるものの基本的に受け身体質の男子二人は彼女の言うなりになるしか無い。言われるがままに僕は、実行委員の目を閉じた。

「有難うございます。では――」

 と、言って、女の子が目の前で躊躇無く、制服を捲り上げた時の男子高校生の気持ちを考えたことがあるだろうか。一応、僕とて健全な男子高校生だ。ラッキースケベとか以前にプライドが傷つく。僕は男として認識して貰えていなかったらしい。ちなみに色は白で、スポーツブラだった。
 下は見ていない。スカートのホックに手をかけた瞬間に理性が勝り、横を向きながら、神話に出てくる神の名を思いつく限り、延々と呪文のように唱えていた。この時点で実行委員が公開お着替えを目撃していたなら、そこで出血多量で死んでいただろう。僕は青空の下で公開お着替えする勇気は無かったので、近くの狭くて臭い公衆トイレの中で四苦八苦する羽目となった。



 肩に置かれたひんやりと心地良い連れの手が、僕を現実へとかえす。
 先に、蛇口の水と戯れていたからだろうか。捻りすぎて水が飛び出したり、蛇口を逆さまにして噴射する飛沫を見たり、随分と楽しそうにしていた。
 何処の生まれかは知らないが、外国にはもっと洒落たものだってあっただろうに。本当に浮世離れした子だ。留学生ではなく、妖精ちゃんと紹介されてもちっとも不思議に思えない。

「では、どちらで」
「僕は寮に帰る。キミはどうする?」
「キミではないと何度、申し上げれば――」
「……ベスはどうする? 家でも、学校でも近くまで送っていく」

 何度目かの定型句を受け取りながらこぐのを止め、惰性とハンドル捌きだけで下るカーブを疾走する。荷台もない安物の自転車。彼女は後輪の出っ張りに足を置き、己の肩に手を添えているだけなのに妙な安定感を保っている。寧ろ、カーブに合わせて身体の重心を変え、自転車を加速させた。

「家? ……わたくし、自分の家がどちらにあるのか分かりません」

 想定外の答えに、ブレーキをかけ損ね、ガードレールにぶつかりそうになったが間一髪、足で蹴飛ばす。まさか、本当に妖精ちゃんなのか。

「今までどうしていたの……」
「リムジンで愚弟と共に送迎して頂いておりました」

 何処のご令嬢だ。
 本当に、彼女と居ると突っ込み精神が休まる暇がない。こんなにも突飛で、愉快な人物がずっと前の席に居たのかと思うと何だか不思議だ。

「なら、寮に来る?」
「!」
「そこでシャワー浴びて、着替えて、電話して迎えに来てもらえば?」

 言ってから、圧倒的に足りなかった部分を補足する。

「……男女混合の寮だから心配ない。女子……岳羽か、山岸のどちらかなら居ると思う。あと、今更、学校に寄るのも面倒と言うか……」

 ヘンに歯切れの悪い台詞になってしまった。後ろめたいことがないのに大変、後ろめたい。
 ツバを持とうとした指先が空を切る。逆さだった。帽子を深く被ろうとして失敗するとか更にバツが悪い。
 動揺していると、空から木の葉が擦れ合うような息遣いが落ちてきた。

「貴方が不誠実な方でないことは、よく知っておりますからご安心を」

 彼女の、肩を握る力がきゅっと強くなる。

「それに、仮にそうだったとしても――」

 言葉は聞こえない。びゅんと渦巻いて吹いた突風が邪魔をした。
 けど、たぶん、色素の薄い綺麗なショートヘアーを風に流して、晴れやかな顔をしているんじゃないかな、って。願望がそう思わせているだけかもしれないけれど。

「少し遠回りをするよ」

 言い、土手沿いから入り組んだ住宅街の裏道へと入り込む。ギリギリ車が通れるか、通れないかの道幅だ。地元の人間以外、殆ど通ることの無い穴場中の穴場。ややスピードを落として走行する。

「お詳しいのですね」
「少ない趣味のひとつが散歩」
「まあ」
「縁側でお茶を啜ってる、年金暮らしのご隠居みたいな趣味だと思ってる」

 笑い声は聞こえなかった。笑うべきところで笑わないなんて、やっぱりヘンな子。
 まだ明るい空に、チカチカと一番星が光り始める。一番最初に光りだす輝かしい光―― 一番星となるのは一等星が多いらしい。道標の指標にされがちな北極星はてっきり一番星なのだと信じていた頃もあったが、北極星は二等星と知って図鑑片手にショックを受けたことがある。たわいない話だ。

「今、何を考えていらっしゃいました?」
「……別に、何も」
「楽しそうにしていらっしゃいました」
「……そう?」
「はい」

 五月初旬だってのに初夏の陽気で、暑くて、汗ダラダラで、シャツが張り付くぐらいベトベトだってのに。身体のいたるところにペンキだってついているってのに、楽しそうにしていた、か。そういえば最近、プレイヤーのディスプレイ表示ばかりいじっていて、空を見ていなかった気がする。

「貴方だけ楽しまれるのは聊か、腑に落ちません。と、言うわけでぇ〜、質問タイムに入りたいと存じます」

 どういう下りだ。
 つか、途中からイントネーションが若干、おかしい方向に上がったな。常に前方注意せねばならない僕に、ゴーイングマイウェイの彼女を止める手立ては無い。

「ズバリ、貴方の好きな方をお伺いしたい所存にございます」
「居ない」

 顔面直球のド・ストレートで来たので、サクッとかわして流した。

「不正解にございます」
「不正解とかそういう問題じゃない」
「学校のクラスメイトとの交流の深め方のひとつとして、様々な駆け引きを用い、好きな人を暴く、心理・頭脳戦を繰り広げるとか。戦を潜り抜ける過程で競争相手を見つけ次第、粘着質に足を引っ張る行為に走ると聞いたことがございます」

 凄い偏見だ。
 ある意味、間違ってはいないが、何処から仕入れた知識だ。最近、陰湿な少女漫画が流行っているからその辺りか。
 いずれにせよ、

「どうでもいい」

 この一言に尽きる。
 だが、しかし。そんなことよりも、僕からどうしても言っておきたいことがひとつ、あった。

「どうでもいいよ――それよりも、さ」
「はい、何でございましょう」
「僕には『キミ』と呼ぶなと言っておきながら、僕のことは『貴方』じゃ、おかしくない?」

 言ってしまってから、異国では愛称で呼ぶのが普通なのではという事実に気づいてしまう今日の僕は、とことん調子が狂わされているらしい。誤魔化すように、力強くペダルをぐんぐんと踏みしめる。

「ベス――僕から質問」

 「キミ」「違う」のやり取りを繰り返し、すっかり呼び慣れてしまった愛称で舌を濡らしながら、さらりと問いかける。

「ベスの好きな人は誰?」

 自転車をこぐ今なら、僕の意地悪な顔を見られることもないから安心して問いかけられる。
 ほんの悪戯心だった。

「さっき、言っていたよね――夢は、大好きな人のお嫁さんになること、だって」

 それって好きな人が居る、ってことなんじゃないの?
 てんで、笑ってしまう。おかしい。何が、おかしいって。普通の女の子には、こんなことしようとも思わない。何故か、彼女にはそうしてみたいと出来心が芽生えた。
 今日、初めてまともに話し、浅く知り合ったばかりだと言うのに、何だか随分と前から知っていたような気がする。クラスが同じで、しかも前の席の子なのだから、当然と言われれば当然なのかもしれないけれど。

 クラス中の女の子が美容・メイクの流行を追いかける中で、じっと机に座り本を読んでいた。今、思えばあれが彼女の語録集を培っていたのだろう。化粧っけがなくとも可愛い、けど他人とは積極的に交流を持とうとしない控えめな女の子という認識だった。だけど、ちょっとずつ変わりつつある。
 学園のかっちりした制服よりも、帽子を被ったオーバーオールがよく似合う。シャープペンシルより刷毛、化粧よりもペンキの明るい色が似合う、不思議な雰囲気を持つミステリアスガール――に。

 丁度、路地裏を抜け、ただっぴろい道へと出る。ブレーキをかけ、車を一台過ごした後に再び、走り出す。寮まであと十分と言ったところか。十分、無言を貫き通すのか、誤魔化す方向へ入るのか。どちらにせよ、からかってやる腹積もりだ。
 同じクラス、席も前後だし、知り合ったからにはこれからの付き合いは長そうだ。のんびりとお手並み拝見といこうじゃないか。

「……わたくしの好きなひと」

 と、数秒前までの僕は意気込んでいたのだけれど。
 僕はこれから長い刻をかけて、逆に彼女の器がどれだけ広大で、どれだけ寛容で、いかに自身が懐柔されていたのかを、じっくりと教え込まれていくことになる。
 それだけ、彼女は上手であり――そして、何を考えているのか僕以上に分からない――まさにミスリアスガールだった。
 太陽が沈み、やっと下がり始めた気温に冷え始めた耳に、熱い吐息が吹きかけられる。

「わたくしの好きなひとは――今、わたくしを乗せて自転車をこいでいる殿方です」

 耳元で囁くように紡がれた言葉に、うわっという悲鳴が身体の底から湧き上がる。一度、道を横断するようにぐらりと大きく揺れたハンドルを何とか持ち直しながら、全然ほっとしてないのにほっとするという、あべこべな状況下に陥る。

 今時期にふさわしい、さっぱりとしたベスの笑い声が響く。
 川沿いで同じ事を言われていたなら。間違いなく僕達は、仲良く二人して土手を転げ落ちていたことだろう。







***







 絶えず、世界の何処かで風が吹き続けるように。
 人の生命(いのち)による営みも、悠久に続くものだと人類(ひと)は信じていた。
 だけど、生まれながらにひとは知っていたではないか。メメント・モリ――いつか自分が死んでしまうことを。始まりがあれば、終りがやって来ると言うことを。

「キミは本当に凄いよ、いつだってボクの予想を越えてくれる」

 ゆめとうつつが溶け出す。
 ゆっくりと瞳を開くとそこは――見覚えのありすぎる自分の部屋で。黄色いマフラーに指先を引っ掛け、口元を出した望月綾時が静かに笑っていた。

「春を通り越して、初夏を迎えられたんだね」

 喜ばしい台詞を言うニュアンスで、鎮魂曲を捧げるよう、沈んだ表情で笑う。
 現実を思い出し、地に叩きつけられた雨のように引いていた血が滾り、怒りに沸く。気がついたら、綾時の胸倉を強く掴んでいた。

「何でっ……何で、あんなものを見せたっ!?」

 肩にかかったイヤフォンと、胸元のMP3プレイヤーが激しく揺れる。身に纏っているのはストレッチが効きすぎて、そうじゃないのにちょっと窮屈だと感じてしまう学園の制服。左腕についた腕章が、視界の端で鮮やかな色を象徴する。頬を触れる空気は凍てつき、冷たかった。

「アレはキミの願望だよ」
「嘘だっ!!」
「嘘じゃないさ、無から生まれるものは何もない。キミが願ったからこそ、無何有の郷は視えた」
「……う、そだ」

 力なく首を振る。
 ――アレが自分の願望から生まれたもの?
 信じられなくて、頭が痛くなって、右目を抑えるように後ずさるとトンッと何かが膝裏が当たった。コロコロとキャスターが音をたてる。勉強机の前にある椅子だった。

「キミが想像するよりも、影時間が失くなるということは影響の大きいことなんだよ。それこそ……普通じゃない子が普通になるぐらいには、ね」
「でも、だからって、彼女が……そんな、まさか」
「キミの言う『彼女』にとって、キミの日常は非日常だった。キミはそれが赦せなかった。それだけのことさ」
「……そんな、ことは……」

 ない、とは言い切れなかった。数日前の出来事がフラッシュし、カットが流れる。
 ――それ以上は、どうか言わないで。
 唇に当たった指先の感触がリアルに甦り、フェードアウトした。

「影時間が失くなることによる事実の改変は、世界を歪ませ、亀裂を生じさせる。在りしものを失くす――ただ、それだけで世界は自壊へと導びかれる。母たるもの――ニュクスが望むままに」

 マフラーに口元を埋め、瞼を落とす綾時。彼の浮かべる悲痛の表情がこんなにも癪に障るなんて――ギリッと奥歯を噛み締める音が、骨格を伝い、自分にだけ届いた。

「何でっ……! 何故、自分を選んだっ!?」

 幻覚を―― 一瞬にして、儚く散ってしまう未来を視せる対象に何故、自分を選んだのだ、と。岳羽や順平、山岸、桐条先輩に真田先輩、天田だったなら。彼らが都合の良すぎる未来に魅せられ、望んでしまい、懇願されたのなら。自分はもっと揺れ動いていた。
 彼らが対象とされなかったことを安堵する前に、そんな言葉が飛び出していた。そんな言葉が飛び出すくらいに――自分は動揺し、困惑していた。

「ゆかりさんや順平くんを見くびってはいけない。彼らの意思がそんなもので揺れるほど弱くないことを……リーダーであるキミが一番、よく知っているはずだ」

 ひゅっと音をたてて気管が閉まり、息が出来なくなる。

「それにボクは、キミ自身に決めて欲しかった。全ての決定権はキミに委ねられている。他人が介入する余地など、最初から無い」

 血が昇り、鼓動が早鐘のように鳴る。
 喉と、胸と。どちらに手をあて、落ち着けと命じればいいのか、分からない。

「この部屋に入って核心したよ。ゆかりさんやアイギスさん……誰よりも色濃く、誰かの残り香がこの部屋には残っていた。心地良い調べのような、柔らかい芳香」

 瞳が開き、反比例するように瞳孔が絞られるのを感じる。

「抑圧された願いは時に大きな力を生む」

 綾時の、感情を宿さない、ただただ目の前にあるものを享受すると言わんばかりの、大きく見開かれた虚無の瞳がそっと自分を見透かす。

「キミの渇求した願いに、ボクの力が応えた」

 膝を折る。もう――立って、いられなかった。
 哀れむように綾時が、自分を見下ろしている。まるで、偉大なる神に懺悔と赦しを請う罪人のようではないか。酸素が飽和しきった思考で、ぼんやりとする。

「ボクに与えられた力のほんの一握りを使うだけで、キミも彼女も……全てから解き放たれる。普通の、何処にでも居るような平々凡々な高校生に。救いのない現実に終止符が打たれ、穏やかで心優しい未来は現実のものとなる」

 左手が力なく上がり、右手の腕章とホルスターに触れる。
 役割に縛られることのない記憶が、鮮明に脳裏に甦る。

「さぁ、『選択』の時間だよ。ボクを殺すか、殺さないか。いや、デスの名ふさわしく――慈悲なく、問いかけよう」

 綾時の手が、祈りを捧げるように恭しく胸元に添えられる。宣告者の名に恥じぬ、厳かな振る舞いをした綾時は、静かに審判の刻を告げた。

「あの初夏の記憶を、キミ自身の手で、創造するか。
 ―――――――――キミ自身の手で、破壊してしまうか」







***







 白い息があがる。
 ぼたぼたの雪が降っていた。髪に積もったかと思えば、すぐに溶けてしまう淡い雪。白く染まったアスファルトの上に、黒抜きの足跡が残る。愛用のイヤフォンとMP3プレイヤーはいつもの定位置にあったが、手に取る気にはなれなかった。
 誰にも会いたくなかったから、自室の窓から外へと飛び出した。もう一人居た来訪者は闇に同化し、二度と触れられぬ存在となった。

 闇雲に歩いた。モノレールに乗った覚えも無いのに、自分はその前に辿りついた。引き寄せられるようにドアノブを捻る。あの笑顔が、目の前にあった。

「ようこそ、ベルベットルームへ」

 片手をあげ、いつものように入室を歓迎される。もう片手には漆塗りの赤茶碗。辺りには醤油とかつおぶしの香りが立ち込めている。

「丁度、年越しの準備をしていたところでございます」

 ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、頭から下半身までずぶ濡れの男を見ても彼女の反応は変わらない。アギダインで乾かしましょうか、などと提案してくるぐらいの無邪気っぷりだ。

「宜しければ年越しを共に――あら、その前に影時間がありましたね」

 いつだってキミは、そうやって何も聞こうとしない。それがキミなりの優しさであり、愛情だと気づいたのはいつのことだったろう。
 記憶と変わらない無垢の瞳が見上げる。笑顔を作ろうとして、うまくいかなくて、どうしようもなくて。彼女の――エリザベスの身体へと枝垂れかかった。

「ごめん」

 他に言うべき言葉はあった。けれど、その言葉以外、出てこなかった。
 頭を項垂れて、ただひたすらに謝罪した。

「ごめんね」

 手は出さない。彼女を抱き締められる程、甲斐性のある男じゃない。顔だって見せられたものじゃない。だって、自分は今――。

「……ごめんね」

 屋内なのに、足元が濡れる。ポツリ、ポツリと雫状のモノが落ち、弾ける。雪解け水なんかじゃなかった。

「本当に、ごめん」

 幼い頃「男が泣いてもいい時は人生にこれっきりだ」と三本指を立て、父親が教えてくれた。ひとつひとつ指を折り、説いた三度の機会――生まれた時と、両親が亡くなった時と、愛する人が死んだ時。

 お前は産まれた時「おぎゃあ」と一度しか泣かないような不精な子だったよ。父は笑って言い、こうも付け加えた。精一杯「生きている」って叫んだんだな、って。 

 そう言って、暖かな光のような笑顔を浮かべていた父は、今は遺影の中にしかない。小さな手で抱え込みながら、ぼんやりとその時の言葉を思い出していたように思う。泣いてもいいんだぞ。大きな手で頭を撫でられながら事前に赦しを得ていたのに、自分は泣かなかった――突然のことで、泣けなかった。

 最後のソレは考えない。想像したくもなかった。同等のことをしてしまったと、自覚したくなかっただけなのかもしれない。

「ごめんね……ベス」

 一度も呼んだことのない愛称を無意識に口にしながら。だから、どうか――と。
 泣いて、いいよね。父さんと母さんが亡くなった時、泣けなかった分をここで泣いてもいいよね? 相手無き相手に問いかけ、やり場のない感情が声となり、飛び散る。



 ジングルベルが鳴る中で、そっと手を差し出した。差し出した手を見て、彼女は首を横に振った。

 ――どうして?

 問いかけようとした唇に、そっと彼女の人差し指が乗り、華のある笑顔で見上げられた。彼女は笑っていた。黄金色の瞳に薄い水膜を張って、笑っていた。役割を全うする為、ある感情を切り捨てる選択をした彼女を、攻めることなんて出来なかった。
 イルミネーションが溢れる街中を一人歩いた。今にも泣き出しそうな真っ黒な空を見上げながら、もしもと願った。クリスマスなんだから、サンタがプレゼントをくれるかもしれない。幼稚だなと思いながら、白い息をあげ、本気で願ってしまった。残念ながらその願いはサンタには届かなかった。

 皮肉にも心の奥底に残っていた残滓は、死の宣告者に魅入られてしまった。



 想いをつのれない彼女と自分の代わりに、雪はしんしんと降り続ける。風のない街に白い花を散らし、薄くつのっては幻想的な白銀の世界を創りだす。

 止まらぬ落涙を見つめながら、思う。願いごとなんて、叶わなければ良かった。








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