稀代の神を気取って、空を分かつように真上に向かって指先をすっと立てたとする。今、その位置に燃え盛る灼熱のあかい炎があるのなら一般的な『正午』を指すのだろう。日と月が逆転する同時刻では『影時間』に突入する時間だ。だが、正反対を司る今この時にそのような時間は存在しない。
 世は真理を追い求めながらも、常に不条理だ。表向きは自由平等を、平和をと詠いながらその先を追求した結果、影時間を生み出してしまった。『光時間』がないのはきっと、この世界を統べ、住み着いている人たちの心に蠢く闇が、自然では浄化しきれないぐらいに大きすぎたのだろう。

「こちらが目的地にございますか?」
「うん」

 空を仰ぎみ、両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、静かに頷く。
 もう暑さに喘ぐのも、苦しむのも、倒れるのもごめんだとエリザベスを連れだって来たのは、かつて三種の神器と崇められたエアコンにより設定温度までガンガンに冷やされた快適な室内……ではない。ポロニアンモール片隅、木立下にある広場だった。木々の葉がゆらゆらと揺れ木漏れ日となり、空から燦々とふりそそぐ滾る熱を和らげる。手軽に涼を取れる場所をコンセプトに作られたようだが、利用者は多くなかった。
 ポロニアンモールの最大の欠点は『屋外型』にある。ショップを巡り歩くには寒暖の差が激しい箇所の出入りが必要不可欠、夏は暑く、冬は寒い。最悪と言えた。そこに涼み処をと言ったところで焼け石に水だ。
 現に夏休み終了後の残暑厳しい平日でもある今日、広場周りに置かれたベンチは見事に閑古鳥が鳴いていた。何故、この空間を利用して手軽に入店できる喫茶店――もしくはフードコートを建設しようと思わなかったのだろう。此処を管理する経営者の思考がいまいち理解できない。
 最早、知る人ぞ知る名所と言えた。自分も季節が良い時に誰にも邪魔されず、心地良いうたた寝が出来る箇所としてインプットしている。街路樹が色づき、葉が舞い落ちる空を膝枕でもされながら見上げ、耳掃除でもしてもらえたら気持ち良さそうだ。

「こちらは何をいたす施設なのでしょう……?」

 トリップしていた思考がエリザベスの声に引き戻される。暦上は秋だが、実感温度は夏であることも思い出す。じわりとワイシャツに汗が滲み、プレーヤーに繋がっているイヤホンのコードが肌にまとわりつく不愉快な感触。
 普段ならばこのような時間帯に、このような格好でぶらぶらと公共の場を出歩くことは許されない。現に先程、黒沢巡査に声をかけられかけた。学校内の全空調をコントロールする管理室が熱暴走しクラッシュしましたという魔法の一言が無ければ直ちに補導されていたに違いない。先生方は今頃、暑さに茹だりながら修理の対応に追われていることだろう。ご苦労様です。
 おもむろに腕時計を見やる。あともうひと刻み。

「もう少し待てば……分かる」

 首を傾げるエリザベスに手招きをし、広場の中心に近いところへと誘導する。
 主目的は誘うときに告げたが、詳細についてはエリザベスに教えていなかった。が、彼女は更なる質問を重ねようとはしない。向日葵と同じ色をした無垢の瞳でじっとこちらを見つめるだけで、『もう少し』がどれくらいなのかを計っているようにも見えた。
 夏の空が眩しい。青い色紙をハサミで切り抜いたみたいだ。地平線から夏の空へと聳え立つ雲に、エリザベスの薄っすら光り輝く月色をした髪と白い肌がくっきりと浮かび上がる。いつだか学校にエリザベスを案内した際、それを目撃したクラスメイトが「月のように輝く銀髪、雪のように白い肌、妖精のような透き通る存在感」と評していたが、理解できた一方で納得できない部分も聊かあった。
 確かにエリサベスは全体的に色素が薄い。太陽か月かと言われれば、間違いなく後者。だが、決して存在が希薄なわけではなく、太陽の化身とも取れる夏の風景に埋れることはない。
 ならば、昼の空に浮かぶ月はどうだろう。逡巡し、あんな薄ぼけたものではないとかぶりを振る。太陽の隣に同時に存在し、その恩恵を受け燦然と光り輝く月のようだと言えば適切か。だが、太陽と月はこの地球上に居る限り、互いを主張したまま共存できるものではない。重力に抗えない生身の人間には淡い夢、パラドックスと散る。

 取り留めのないことを考えている内に、止まることのない時間は過ぎてゆく。大空を羽ばたく鳥の影が過ぎった瞬間、秒針が定刻を刻んだ。広場の中心を陣取ったまま注意深く気配を巡らせていると、ゆらめく木立の影に一閃が走った。前触れも無く、唐突にパシュンと飛び上がった飛沫に真正面に居たエリザベスは驚きを隠せなかったようだ。

「これは……!」

 驚いている暇はないよ。
 言おうとして、目の前に居たエリザベスの姿が消え、ピシュンピシュンと飛んだ二連発の飛沫に代わる。寸前のところで避けたらしい。静かな微笑を浮かべていることの多いエリザベスの口元が小さく開き、瞳は満月のように満ちていた。
 説明する猶予はないようだ。仕方なく、結論から述べる。

「命の源たる水をもてあそぶ罪深きアートの進化版」
「まぁ、まぁ、まぁっ!」

 エリザベスは聞いているのか、聞いていないのか、緩急つけて地面から突出する飛沫たちに感嘆の声を上げていた。時には片足を上げて、時にはジャンプして、落ちそうになる帽子を片手で交互に押さえながら命の源たる水飛沫と戯れる。広場の床タイルに備え付けられた噴水口からアトランダムに飛び出す飛沫――暑い夏の時期にだけ行われている粋な演出だった。

 巖戸台は海に面している立地だが、工業地域帯が密集しているせいかお世辞にも海は綺麗ではない。また、防波堤が無く、波が高いためか遊泳禁止のところが殆どである。目の前にあるのに遊べない。そんな子供の心理を擽る格好の場所だった。
 先に、経営者の思考が理解できないと悶着をつけたが、いやいや実のところは水遊び場が少ないと嘆く子供達に場所提供したのですとサプライズな意図が隠れていたのなら先程の発言は即時撤回、己が思考が浅はかでしたと深々と謝罪したいと思う。並んで、思慮された計らいだと賞賛しようではないか。
 今頃、狭い部屋の中でぎゅうぎゅうに敷き詰められ、頭をうんうんと悩ませている子供達も放課後となれば次第に集まりだしてくることだろう。かく言う自分もその子供に――と、言ったら「私は子供じゃないもん」とむくれて怒られそうだ――舞子に教えて貰った。

 エリザベスはくるんくるんとつま先を軸に廻っていた。時折、喜悦を含んだ高い声をあげて、嬉しそうにタン、トンと軽快なステップを踏んでいる。エリザベスが右手を大きく振り上げると、彼女の右側面から飛沫が高く上がる。同じように左手を上げると、今度は左側面から斜めに飛沫は共鳴した。
 一見、その様は水と戯れるウンディーネのようだ。それでいてきちんと無数の飛沫を避けているのだから只者ではない。ずば抜けて反射神経が良いのだろう。加えて、滑り台を立ったまま滑り落ちる程のしなやかな身のこなし。是非とも特別課外活動部の一員としてスカウトしたい逸材だ。
 そういえば、エリザベスはペルソナを束ねる全書を管理しているが、もしやペルソナ使いでもあるのだろうか。召喚器を使っているところを見たことはない。気づけばいつも海をたゆたうクラゲのように、エリザベスの周りにペルソナたちはふよふよと浮いていた。
 この前も、同じ魔術師アルカナであるジャックランタンとジャックフロストが、黒く焦げているのに凍りついているという不可解な現象が起きた壁の前で、互いを追いかけるように旋回していた時があった。その中心に居たエリザベスが「では、次はジャアクフロストにアギラオをして頂きましょう」と手ポンしたところで「止めて」と静止した経緯を回顧する。何をしようとしていたのだろう。たぶん、コンロに火をつけようとして――と至って普通の回答が返ってきたのかもしれなかったが、事態を収拾する方に努めた。イゴールは「ふぉっふぉっふぉ」と笑ったまま最早、こちらを見ようともしていなかった。
 が、疑問は疑問のまま打ち消される。吐息が肌を掠める。目の前にエリザベスの顔があった。

「エリザ――」
「このような心の奥底からときめくアトラクションは初めてでございます。さぁ、ご一緒に」
「あ、ちょ、ま――」

 って。
 言葉は危機感に呑み込まれた。逃げ遅れた前髪一房を掠めるように飛沫が弾け飛ぶ。顔を横に反らすのがあと一歩遅かったら危なかった。

「不特定箇所から一斉に開く発射口、迸る飛沫、殺気無き軌跡とはまさにこのこと!」

 自分の手をぎゅっと握ったまま両手を広げ、片つま先でぽん、ぽん、ぽんと蒼色のスカートを翻し、飛び跳ねるエリザベス。ひらりと蝶のように舞い、雅やかな水が描くアートのなかで踊るエリザベスにぼぅっと魅入る――場合じゃない。首に向かってひやりとした風が先走ってきたのを瞬時に感じ、反射神経だけで上体を曲げると後方で弧を描いた水流。
 自分が立っていた広場の中心は唯一、空間を自由奔放に飛び交う水飛沫の餌食とならない場所でもあった。安全圏から飛び出してしまった今は、哀れな逃亡者に成り下がるしかない。

「こちらに」
「――わっ!」

 ぐん、と手を引かれてエリザベスの横に並ぶ形で避けると、元居た立ち位置は四方八方からの水攻めによりバシャンと盛大に濡れた。ひえっという言葉は呑み込んだ。
 飛沫が飛び出す順序には法則性がある。大体、噴出の順番を覚えたからエリザベスへのアドバイスに徹し、高みの見物をと目論んでいたのが計算違いだった。故意ではないにせよ、エリザベスに誘われ、自らが参戦している現状だ。彼女の情報処理能力を侮り、自分だけおめおめとトンズラ決め込もうとしていたのがよくなかった。そういうことだろう。
 エリザベスは実に身軽だった。舞子に連れられ「此処で待っててね、お兄ちゃん」の言葉を額面どおりに受け取り、一発目の水飛沫により真正面から餌食となった自分とは大違いだ。舞子に連れられてきた時のことを思い出しながら、空中を飛んでいた肩にかけただけのイヤホンを片手で掴み、繋がっていたプレーヤーごと服の奥に仕舞う。前は生徒手帳という尊い犠牲により壊れなかった。不幸中の幸運だった。その代わり小田桐に「キミらしくない」と手帳再発行の際、小一時間程怒られることになったけど。

 エリザベスの靴が水に滑り、しゅるんと鳴る。近くなった距離に肩と肩がワイシャツ一枚越しに触れ合う。

「エリザベス」
「はい?」
「手、離した方が……」

 避けやすくない?
 足手まといにならないように、追ってくる刺客を避けながら言うとエリザベスはきょとんとした表情を見せ、屈んだ。

「私がそうしたいから、そうしております」

 避けた水幕の下で、エリザベスが微笑む。

「空の上で、貴方とダンスを踊っているようで……凄く楽しいです」

 ぴしゅん――と、微笑む彼女の背後に迫る水飛沫。エリザベスは一向に避けようとしない。聡い彼女が気づかない筈がないのに――だが、迫り来る飛沫に駆られ、強くその手を引いた。

 ぱちゃんと足元が鳴り、トンと胸元に温かい何かがあたる。
 広場のタイルはすっかり濡れ、薄い水面のようだった。水面に映る天上の風景――成程、空の上で踊る、か。緩急つけて空を切り裂いていた飛沫の音が一瞬、止む。合い間を鳥の羽音とエリザベスの息づく小さな音が零れ、紺色のリボンタイがさらさらと揺れた。

「だって、これが『でぇと』なのでございましょう?」

 引き寄せた際に重なり合ったもう片方の手がぎゅっと握られる。僅かにいつもより熱を帯びたそれはとくんとくんと合わせられた鼓動に合わせて、しっとりとした温度を手袋越しに伝える。

『その……まえの、それ、がさ。自分のせいで途中で……終わっちゃったから』
『それをやり直しにいこう』

 ――デートってやつを、さ。
 らしくなく、爪先で頬をかきながら蚊の鳴くような声で言った言葉はちゃんと届いていたんだ。細められた黄金色の瞳に見上げられた瞬間、言葉を失った。いや、言葉なんていらなかったのかもしれない。
 返事を返さない代わりに地からの脈動を感じて、タンと足を蹴る。握った手はそのままに、重ねられた手は一度だけ離して場を離れた瞬間、飛沫が迸る。エリザベスの笑い声が混じる。月色の細い髪が舞い、その横を球体となり日に光った飛沫が飛び散る。離れた手がもう一度、重ねられる。微かに口の端が上がる感触。たぶん、自分も笑っていた。

 ぴちゃん、ぱちゃん、ぽちょん。
 水音のメロディに忌憚ない声を交えて、踊る。

「ありゃ、湊ちゃんじゃないか」
「あらあら、楽しそうですわね」
「ワシ等の若い頃を思い出すのぉ、ばあさん。ほほっ」

 メジャーワルツ曲などいらない。
 言葉無く想い伝えるように、通じ合わせるように踊る。

「ちょっと……あれ、リーダーじゃない!?」
「うわっ、早速、噂の美女と……」
「順平。どういうことよ。何なの、あのいい雰囲気っ! 説明なさいっ!!」
「ちょ、ゆかりっち、予告ない暴力はやめてっ!!」

 区切りない空の上で、似た蒼色のワンピースと身軽な夏制服を翻し、こちらに向けられた黄金色の瞳を見つめながら、時間も忘れてただひたすらに舞う。

「お、有里。郊外トレーニングか? 何故、オレを誘わない!?」
「どう見ても違うぞ、明彦……しかし、良い注目の的だな」

 一人、二人と近くを通りかかった人達が次々と足を止めたことも知らず。
 その中に顔見知りの人達がたくさん居たことも知らず。
 果てには、修学旅行で訪れていた見知らぬ中学生の集団に囃されたことにも気づかずに。

 出ようと思えばすぐに出られる水の神殿の中で、誰にも邪魔されない夢のようなひと時を過ごした。






***







※以下はぺよんユーザ向けのおまけです。





 ガヤガヤと道を広がり、乱雑に歩いていた複数の背中がふと止まる。その背中に指先の一皮も触れることなく立ち止まると、本に落としていた視線をふと上げた。

「人だかり? 有名人でも来てんの?」
「ちげぇよ。けど、女の子の方、神秘的な雰囲気でかわいくね?」

 特に仲が良い訳でも悪い訳でもない同級生たちの視線に倣うと、白昼堂々と恥ずかしげもなく手を取り合ってダンスに興じる年頃の男女の姿があった。年はそう変わらない。一人は近隣にある、月光館学園の生徒だろう。夏の太陽に眩しく光るワイシャツに、紺色のリボンタイがふわりと風に乗る

 これだけ注目を集めているのに当の本人たちはまったく気づいていない。
 惜しみない笑顔を浮かべて、互いだけを見ている。伴うステップさえなければ、厳かな結婚式をしているようだった。これで付き合っていないとか言ったら嘘だろう。
 やがて一人、また一人と興味を失い、場を立ち去ってゆく。水の帳を境に形成された美しい世界。目は惹くが、決して入り込めないことも人々は悟ったのだろう。気づけば俺一人となっていた。
 長い前髪で片目が隠れがちの少年と、めずらしくも美しい色合いの瞳を持った少女。きっとこの二人は――水飛沫が命を奪う刃となり、周囲が火の海が荒れ狂う断崖絶壁になったとしても、このまま何一つ崩すことなく踊り続けるんじゃないか、と。ふと思った。それ程までに永遠を思わせる、映画フィルムのワンシーンのようだった。

「おーい、鳴上。列から外れるなよーっ!」
「……すみません」

 少年の――隠されていた深い藍色が見えた時、すぅっと引き込まれかけたが意識を確かにし、自分がいるべき場所へと振り向き直る。また、出来れば会いたい。話してみたいと何故だか思えた。なに、時間はたっぷりある。きっと彼――もしくは彼女とはいつか出会えるような気がした。

 忘れた栞代わりにパンフレットを挟み込み、本を閉じる。本を読み耽ること以外楽しみはない旅行だと思っていたが、思いがけない邂逅にふっと頬が緩む。
 あぁ、あの人ともまた巡り会えるだろうか。
 灰色の空から雨粒が降り落ちる中、雑踏の中へと消えていったひとつの寂しい背中が脳裏に過ぎる。今にも掻き消えそうだったあの背中を追い、待って、俺も一緒に行きますと言うには幼すぎたあの日。
 いつか俺もあの人と――。
 あの人の温もりを忘れられない手の平を見つめて、決意するようにきゅっと握り締めると、今自分が帰るべき場所へと駆け寄った。


 数年後、彼はただのいち傍観者から当事者へと成り代わる。


 ...to be continued hiren so-ka








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